戦争の痕跡

能代市で戦争で亡くなった方は2000人余りとされている。能代市は空襲や敵機の襲来が無かったので、ほとんどが戦地で亡くなったと思われる。 戦争終結直前に土崎が空襲にあっている。土崎には石油施設や、精錬所などが数多くあったので狙われたのだろう。能代にも米代川河口に造船所があり、秋木機械の工場では飛行機の部品や砲弾が製造されていた。また東雲原には 能代飛行場 があった。そこは軍の基地というよりも、特攻隊の訓練場として使われていた。能代飛行場も空襲のターゲットになった様だが、天候により逃れた様です。土崎の空襲の後、次は能代ではないか? という噂がたったが、その前に終戦を向かえた。

能代にも戦争の痕跡があった。
能代西高の敷地内に、能代飛行場の弾薬庫が残っている。

※2021年 能代工業と能代西高が統合し能代科学技術高校になり、現在の能代工業高校を改築して利用する事になった。今後の西高跡地の利用についての市議会議員からの質問が、令和元年の能代市議事録に載っていた。

「能代西高跡地は移転先候補の対象となっているかについてでありますが、まずは、施設のあり方、必要機能等について、その方向性の検討を行い、その上で設置場所や整備費用等を加味した検討を行うこととしております。
 業務委託での整備のパターンは、現在地での建てかえか移転による新設を想定しており、移転による新設では、能代西高跡地に限らず、一定条件を満たす場所であれば、検討の対象になるものと考えております。
 次に、今後のスケジュールはについてでありますが、市といたしましては、農業技術センター整備方針検討委員会の御意見等をお伺いしながら検討を進め、議会に対しまして12月定例会で中間報告を、年明けには整備方針成果報告の骨子をお示ししたいと考えており、この過程で出された御意見等を踏まえて、年度内に報告書を取りまとめる予定としております。」

今現在まだはっきりと決まっていない様ですが、たぶんこの弾薬庫は解体されると思います。

海岸線に 風の松原 と呼ばれる砂防林がある。東西1km・南北総延長14kmで760haの広さの中に、約700万本のクロマツが植えられている。1710年頃からクロマツの植林が始まり、1987年に愛称が風の松原に決定された。 現在は「日本の白砂青松」などに選ばれている。 しかし、1999年に 松くい虫 の被害が発見され、毎年防除がされているが被害は深刻化しつつある。林内には、サイクリングコース・ジョギングコース・散策路が作られている。 この間知った事だが、パークゴルフコースも作られていた。

この砂防林内にも戦争の痕跡を見る事が出来る。

分かりづらいかもしれないが、地面に凹んでいる部分があります。この直径1.5〜2m程の凹みが数多くある。この凹みは、松の木を掘り起こした跡の穴です。掘り起こした松の木の根を、乾溜窯によって松根油を生産していた。全国各地で生産された松根油で、航空機燃料などを生産していた。能代市も終戦までにドラム缶18本程の松根油が作られたが、出荷はされなかったという。終戦後に漁船へ使ったが、エンジンは動かなかったらしい。本当に実用化されたかが怪しい。日本は資源の無い国なので、武器に必要な鉄や石油は海外から得る事になります。それが戦況の悪化などで入って来なくなったため、苦肉の策であったと思います。

鉄などの金属は 金属回収令 が出され、国内にある金属を集め武器を作っていた。
正確な時期は不明ですが、昭和18〜19年にかけて 松下造船能代工場 が建設されました。現在のパナソニックです。 国内に金属は無いが、木材は豊富にありました。 その木材を使って船を作ろうと考え建設されたのが、松下造船能代工場です。戦場で木造船はどうか? と思うのだが、当時はそれしかない状況だったのではないだろうか?

             (全長32m・250トン)
昭和19年4?5月3日に第一号が進水し、6月5日に第二号が進水したそうです。輸送船として活用するつもりであった様だが、外洋には出なかった様です。8隻の船が建造され実際に海上を走っていたされているが、真偽は不明です。

(当時の松下造船の新聞広告)※野添憲治さんの著書から参考にさせていだだきました。

松下造船能代工場の跡地が現在は河畔公園になってます。しかし、その痕跡は全然残っていません。物資が無く身近な物で代用をするという事は、正に自分の 「DO it yourself」 に通じるものがあるが、戦争でそんな事は通用しないだろう。

敗戦色が濃くなり最後は本土決戦で敵にダメージを与えようと考える様になり、国内では「竹槍」の訓練が行われる様になる。国民は竹槍で敵に向かって行くつもりであった様ですが、最終的に悲劇は免れた。当時は本気でそう思っていたのだろうか?
多分、多数の人は無理と思っていただろう。ただ、風潮でそうせざるを得ない状況だった様に思う。 軍人は旗を降るだけだが、一般人が犠牲になっていく。

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