東雲羊羹は、能代市向能代にある「熊谷長栄堂」で製造・販売されて来ました。
熊谷長栄堂は1873(天保3)年創業の老舗で、江戸期に北前船が能代港に停泊した際、京都の和菓子職人から作り方を教わったとされています。 昔、北前船は多くの文化を能代にもたらしたと思います。
能代の老舗「桔梗屋」も、その一つではないかと思っています。
桔梗屋は1592(文禄元)年に創業しましたが、現在 製造・販売されている「翁飴」は、1812(文化9)年から製造・販売されています。
新潟県にも翁飴がある様です。見た感じ桔梗屋の翁飴と似ているので、たぶん製法は同じなのかもしれません。新潟県も日本海に面しているので、翁飴も北前船によって伝わった文化かもしれません。
翁飴は自分にとって敷居が高く、高級菓子の様に思えます。そのため、まだ一度しか食べた事がありません。その翁飴が、一時入手困難な時期がありました。
翁飴を有名人がブログにアップした所、急に全国から注文が入った様です。一日に製造出来る量が少なかったため、予約分で一杯になった様です。 今は、どうなんだろう?
7月27日には「日吉神社御神幸祭」が行われます。いわゆる、能代の祭りです。その祭りでは神輿が出ます。
この神輿が独特の形をいていて、この形は北陸地方に多いとされています。これも北前船によって伝わった文化ではないかと思っています。
能代港は秋田県内で最も歴史が古く、658年から使われていたとされています。1300年間に数多くの文化が海運によって能代に伝わったのではないだろうか。 その間に廃れた文化もあっただろうし、ほんの数十年前まで文化もあったかもしれない。しかし、昭和24年・昭和31年の大火によって能代の中心地の多くが灰になった。この大火によって、北前船の文化や記録が消えてしまったのでは? と思っています。
北前船によって伝わった文化の一つ、熊谷長栄堂の東雲羊羹も消えてしまいました。
9年前にも、一時 伝統が消えかけた時がありました。7代目店主である「熊谷健」さんが亡くなったため、東雲羊羹を作る事が出来なくなったためです。熊谷さんには子供がいなかったため、跡を継ぐ人がいなかった。
熊谷さんが亡くなった翌年に弟の鈴木博さんが8代目を継ぎ、2歳年下の鈴木保さんと兄弟で熊谷長栄堂を復活させた。(名字が違うのは、熊谷健さんが婿入りしたためだろうか?・・)
2015年に東雲羊羹は鈴木兄弟によって復活した訳ですが、その味や食感に以前とは少し違う物になったと言っていました。
それまで使って老朽化した設備を廃止し、あんを練る機械と、羊羹を流し込む充填機を導入した。熊谷さんの時までは、充填を手作業で行っていたと聞いた事がある。しかし、この羊羹の硬さでは機械で充填する事が出来ないという事で、配合などを変えて以前より柔らかい東雲羊羹になったと言っていました。この事によって、微妙な違いが生じた。 だから、この時点で熊谷長栄堂の歴史は閉じた! と自分は思っています。 伝統から外れて生まれた東雲羊羹は別物である! と認識している。
以前、鈴木さんが復活させた東雲羊羹を久々に食べた事がありました。
熊谷さんの作った東雲羊羹を食べたのが記憶にないほどの昔の事なので比較になりませんが、単純に美味しいと思って食べました。仮に、熊谷さんの東雲羊羹と鈴木さんの東雲羊羹を食べ比べたらその違いが分かるかもしれませんが・・・ ま、自分の口はそれほど高度なモノではないので、どうなんだろう?
今回の熊谷長栄堂・廃業を決めた理由は、機械の故障が続き、修理しても直らずだましだまし使っていたらしい。 さらに、去年の12月に工場責任者の保さんが亡くなり、営業の継続が困難になったらしい。後継者がいなく、従業員の高齢化もあって廃業を決めた。 「事業を引き継いでくれる菓子店があれば・・」 と願う人もいる様ですが、186年の歴史を引き継ぐつもりであれば同等以上のモノを残す必要がある。外側だけを同じくしても、何の意味もない! と自分は思います。熊谷さんの東雲羊羹が出来なければ、このまま永眠した方が良い。
ここ数年間に、能代の老舗の閉店が続いています。一番驚いたのが「西村醸造店」の廃業でした。
260年続いた酒蔵に何があったのか?
NHKの朝ドラ「らんまん」に、峰屋という酒蔵が出て来る。昔の酒蔵は上流階級の家柄に属していて、たぶん西村醸造店も同じであっただろう。 峰屋のモデルになっているのが「岸屋」という酒蔵で、牧野富太郎の実家である。史実で岸屋は破綻する事になるのですが、その原因となったのが富太郎の植物研究等で湯水の様に財産を食いつぶした事でした。一種の放漫経営という事になると思います。 西村醸造店の内情は分かりませんが、放漫経営でないにしても、時代の流れに付いてこれなかったのだろう。
今年の1月には、70年位続いた菓子店「たきや」が閉店しました。こちらも、後継者がいないという事で閉店を決めた様です。 3月には「セキト本店」が営業をやめました。
セキトは廃業ではなく、バイパス店は営業を続けています。以前より、本部機能は全てバイパス店に移転していました。本店閉店に至ったのは、能代の構造に問題があると思います。
今年の1月に、銭湯「巴湯」が137年の歴史に幕を下ろした。
近年の燃料費の高騰や設備の老朽化に加え、店主の高齢化によって営業継続が困難になった様です。能代に住んで60年以上経つのですが、銭湯には2〜3度しか行った記憶がありません。 巴湯について書き込んでいるサイトがあったので・・・
昔は、風呂の付いている家は少なかったと思います。そのため、銭湯も多くあったと思います。自分の記憶にあるのは5件で、それ以前にはもっとあったかもしれません。 かつての「木都・能代」には燃料となる木材がたくさんあったと思うし、工場も多かったから需要はあったと思います。 現在は、明治町にある「明治湯」のみが営業を続けています。
自分は銭湯に2〜3度しか行った記憶がないと書きましたが、風呂にはちゃんと入っていました。自分の家にも風呂は付いてなかったのですが、近くの秋木製鋼で風呂を無料開放していたのでそれを利用していました。しかし、秋木の従業員が利用した後でないと使えなかったので、垢の浮いたかなり汚い風呂でした。銭湯に行く事は、一種の贅沢であった。 現在は市町村の温泉がたくさんあるので、銭湯の経営は厳しいかもしれません。
熊谷長栄堂は、6月末で閉店する事になっています。しかし、店頭には東雲羊羹がもうない様です。元々 生産量に限りがあったため予約分しか生産出来ないのだろう。 20日にスーパーで探してみましたが、すでに完売の様でした。たぶん、市内の小売店で残っている所はないと思います。最後の東雲羊羹という事で、閉店が発表された時点ですぐに売り切れたと思います。186年続いた東雲羊羹を、もう食べる事が出来ない。
東雲羊羹も、昔ほどは売れなくなった。 時代の流れで仕方のない事ではありますが、老舗の閉店というのは悲しい。
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6月29日
6月30日で閉店が決まった前日、北羽新報に熊谷長栄堂の広告が載っていました。
閉店の知らせを載せてからは予約分だけを販売していたのですが、30日だけ数量限定で一般販売するという事でした。 そして当日・・・
(7月1日付・北羽新報より)
最後の東雲羊羹を購入しようと約300人が並び、午前10時開店から1時間足らずで用意した1500本が完売した様です。 30日は雨の降る天気でしたが、午前4時から並んだ人もいたらしい。自分もどうしようかと迷ったが、行列が出来る事は想像出来たし、並んでまで購入しようとは思わなかった。もっとも、東雲羊羹にはそれほど思い入れが無かったというのも買いに行かなかった理由になります。
奇しくも、4〜5日前に東雲羊羹を一本だけ頂きました。常日頃から食べているらしく、ずいぶん前に購入した物の様です。
その一本を、家族3人で分けて食べました。一人当たりが本当に少ないです。
東雲羊羹、さようなら・・・・
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