表題に昭和の日付を付けましたが、この日付は自分にとって重要な日付ではありません。では、何故この日付を書いたかというと、衣類を整理していた時に衣装ケースの底から出て来た新聞が、16日と19日付の2枚の新聞であったからです。たぶん多くの家で行われていると思いますが、タンスや衣装ケースに新聞を敷くと防湿・防虫の効果があるらしいです。たぶん、昔からの知恵だったのでしょう。そのため、自分の家でも昔から新聞を敷く様になっていました。
部屋を掃除した時に昔の思い出の品や日記の様な物が出てきた時、それを読んだりするなどして全然作業が進まなかったという経験は多くの方が持っていると思います。約50年前の新聞を見た時、当時はどんな事が起きていたのだろう? という興味がわいた。そのため、しばらくその新聞を読む事になってしまった。
一つの大きな事故が起きていた事が、16日付の新聞に書かれていた。昭和47年6月14日午後8時16分(現地時間)に、日航機がインド・ニューデリーのパーラム国際空港から約24km手前のヤムナー川河畔に墜落した事故です。この事故により、乗員乗客計89名中86名と地上の工事作業員4名が亡くなった。その内、20名の日本人が犠牲になった。
事故原因は操縦ミスとされている。回収されたフライトレコーダーとボイスレコーダーから、墜落したヤムナー川護岸工事の照明を滑走路の照明と思い込んだと推察された。当日は砂塵によって視界が悪かった事もその原因に含まれる。 墜落5秒前に機長が滑走路の無い事に気付き、墜落2秒前にエンジンの推力を上げたがすでに遅かった。つまり、墜落の5秒前までは現在値の異常に気付いていなかった事になる。パイロットの経験が浅かった事に加え、規定の方式を遵守しなかった事、計器表示を参考にしなかった事などなど多くのチェックミスが重なって大事故になってしまった。また、空港の「ILS誘導電波」の異常も原因とされているが、それはインド側が否定している。しかしその件は、何社かの外国人パイロットが証言している。 記事の隅に、落語家・故 三遊亭円楽さんの妹である「吉河信子」さんが、スチュワーデス(今はCAと呼ぶ事が多い)として搭乗し犠牲になった事が書かれている。
19日付の新聞に、遺族が現地に向かった事が書かれている。しかし、航空機事故では遺体の損傷が激しく、身元が分かったのは二人だけとされている。身元確認が難しかった原因は、腕時計などの所持品の多くが付近の住民によって持ち去られた事によるとされている。未確認の遺体はすぐに火葬され、現地に向かった遺族は遺骨も遺品も持ち帰る事が出来ず、事故現場の砂を持ち帰った方もいた様です。
この事故のドキュメンタリーが、NHKの番組「あすへの記録・空白の110秒」として1974年に放送された。その番組がYouTubeにアップロードされていた。
19日付の新聞に「自民党総裁選」の事が一面に載っていた。
佐藤栄作首相の退陣表明に伴う総裁選で、佐藤首相の支持を確信する福田赳夫外相が佐藤派主流派内の多数派工作に着手した。同じ佐藤派内に属する田中角栄氏は憤慨し、田中派結成に向かおうとする。この総裁選には、福田氏・田中氏・大平氏・三木氏の4名が出馬の意向を表明している。いわば、佐藤派主流体制分裂の選挙になる。
この総裁選は7月5日に行われたが、過去の事であるから当然結果は知っている。 第一回投票では、田中氏・156、福田氏・150、大平氏・101、三木氏・69の選挙結果を経て、田中氏・福田氏の決選投票になった。その結果、田中氏・282、福田氏・190で田中角栄氏が総理大臣になった。この選挙戦が引き金となり、「角福戦争」と呼ばれる政争・権力闘争が1987年までの長期に渡って続いた。その背景には、小学校卒の田中氏と東大卒の福田氏との、出身階級の違う階級闘争ともいえる。
16日・19日の新聞に「ベトナム戦争」の記事が載っている。たぶん、ベトナム戦争に関しての記事は毎日の様に載っていたと思う。ベトナム戦争の終戦は1975年(昭和50年)4月30日であるから、この記事からまだ3年間は戦争が続いていた事になる。1973年のパリ協定を経てアメリカ軍は撤退したが、1972年6月19日付の新聞記事には、「パリ会談再開」のための駆け引きが行われている様に感じた。
新聞のスポーツ欄にはプロ野球の事が載っていた。 今はプロ野球中継が放映される事はあまり無いが、昔は毎日の様に巨人戦が放映されていた。自分は野球にそれほど興味がなかったため、毎日目にする巨人軍の事しか知らなかった。 この日は巨人ーヤクルト戦が行われ、9−10でヤクルトが勝利し堀内さんが敗戦投手になった。その日は王さんが19号本塁打を放ち、3打数3安打2打点2四球の活躍であったが、長嶋さんは3打数ノーヒット1三振1四球の成績で5番打者であった。 長嶋さんは1972年から選手兼コーチに就任し、衰えも目立って来たと思う。そして、1974年に引退した。巨人軍は1965年から日本シリーズ9連覇を果たし、1972年も日本一になっている。1974年にはリーグ優勝も逃した事で、長嶋さんは引退を決めたのだと思う。 当時のパ・リーグには、阪急・東映・南海・近鉄・ロッテ・西鉄の球団があった。その後の統廃合により、現在も残っているのはロッテのみです。
能代の記事も一つ載っていた。 能代市浅内の国道7号線で、パンク修理中の車に高校生の乗った二人乗りのバイクが追突し、足の骨を折る二ヶ月の大ケガと書かれている。 当時も現在も二輪の免許を取得出来るのは16歳以上で、高校生でも原則として取得する事が出来る。現在は原付き・小型・中型・大型の免許区分になっていますが、取得にはAT限定もある様です。いつの頃までであっただろう、昔は原付きと二輪しかなかった。今は限定解除をしないと大型に乗る事は出来ないが、昔は一つの免許で全てのバイクに乗る事が出来た。つまり、16歳でも大型バイクに乗る事が出来たのです。その後、中型免許の制度が出来て、限定解除は18歳以上になった。そこには、暴走族が原因しているのだろうか?
今の高校生は在学中に二輪の免許を取得出来るかは分からないが、自分が高校生の時には許可があれば125ccまでのバイクで通学する事が可能であった。ただ、遠い所や交通の不便な場所からの通学に限られていたと記憶している。中には大型バイクで隠れて通学する生徒もいたが、バイクを駐車している所の住民によって学校に通報があり、何度か呼び出されているのを聞いた事がある。
新聞のニュース記事の多くは、今現在の事を報じている物がほとんどだと思う。しかし、過去の新聞ではそのニュースの結果を知る事が出来る。また、記事にはそれを書いた記者の主観が入る事もあるだろう。過去の新聞を読むと、そういった事を知るおもしろ味がある様に感じた。
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