衝撃!喜久水酒造の倒産

11月2日付の北羽新報で、衝撃的な記事に目が行った。

 

「喜久水酒造」が、11月1日までに破産申し立ての準備に入るという告示が掲示された! という内容です。新聞が嘘を書くはずもないだろう・・・ と思いながらも、信じられなかった。とにかく、状況を見に行こうと思った。  

2日が土曜日という事もあってか、人の気配がまるっきり無く閑散としている。

 

事務所の入口には、確かに貼り紙がしてあった。その貼り紙は、会社の代理人による弁護士による物でした。

喜久水酒造のホームページによると

喜久水酒造 |トンネル地下貯蔵庫、醸蒸多知(かむたち)紹介
秋田県能代市の酒蔵。トンネル地下貯蔵庫・醸蒸多知(かむたち)のご紹介も。喜久水酒造が運営。

創業は、明治8年(1875年)と書かれています。しかし、江戸時代である弘化年間(1844〜1848年)に創業と書かれている本もあります。 明治8年2月に酒類税則が制定された。そこで酒造免許を得たのがこの年であると記録に残っていたため、明治8年が正式な創業日となっていると思います。喜久水酒造は江戸時代から麹屋を営んでいた蔵元であった事から、酒造を行っていた可能性もある。 能代は大火の多い町で、被災によって古い資料が焼失されたため正確な年代が明らかでないのかもしれません。近年では、1949年2月20日に第一次能代大火、1956年3月20日に第二次能代大火がありました。

能代の商店街
能代の町作りの始まりは、桧山城・安東尋季の家臣が1556年に大町へ引き移った年とされている。昭和24年の大火では、市街地の42%程が焼失した。この大火以降、延焼を防ぐため道路を広くし緑地公園を作るなど都市計画が作成された。商店街も変わって行く事に・・

この大火によって、能代の商店街や町並みは大きく変わる事になりました。

 

喜久水酒造の当主は、代々「平沢喜三郎」を襲名して来ました。そして、現在は6代目になります。「喜久水」の由来ですが、4代目平沢喜三郎の頃までは酒銘がなく「喜三郎の酒」と呼ばれていたそうです。しかし、秋田県の品評会で出品するためには酒銘があった方が良いだろうと考えたのだろう。そこで4代目の幼名である「喜久治」にちなんで、喜久水と命名した様です。

前にも書きましたが、能代は大火が多かった。昔の能代は「木都」と呼ばれるほど木材会社が多かった。燃えやすい物がたくさんあった上に、一度火事が起きると広がりが早かったと思われます。そして、喜久水酒造も被災していた可能性が高いです。少なくても、1949年の第一次能代大火では確実に被災していただろう。そこで、昔の能代地図で喜久水酒造の所在地を探してみる事にしました。

 

四角く囲んでいる所が、現在の喜久水酒造の所在地です。赤線を引いている部分が畠町通りです。現在の場所に地図に書かれている店舗がいくつかあるので、ここが畠町通りであると推察出来た。すると、地理的に現在の場所が推察出来ます。そう見た場合に「塚本佐七さん、山谷俊三さん、長内歯科医」書かれている所が現存地に当たります。そしてその場所に「平沢喜三郎商店」書かれている場所があります。たぶん、ここが昔の喜久水酒造の所在地だと思います。 問題は、この地図がいつの時代の頃に作られた物か? という事です。この地図にはどこにも記載されておらず、それを知る術がありません。しかし、およその年代は推測が出来るのでは? と思い、調べてみました。

以前にも、この地図はいつの時代の物か? と、調べた事がありました。それは「能代の商店街」という記事の中の事でしたが、その時には「明治40年〜昭和初期」ではないか? と結論付ました。改めて対象物を変えて調べてみると、もう少し確度の高い情報を得ました。

 

現在の市役所の辺りに「能代港町役場」と記載されています。能代市は、昭和15年に「能代港町、東雲村、榊村」が合併し能代市が発足しました。つまり、この地図は昭和15年以前に作られた物と分かります。

 

畠町の地図ですが「カモヤ」が見えます。眼鏡店で現在もその場所に店舗があり、畠町商店街のホームページではその店の紹介が載っていました。

能代市畠町商店街振興組合 – みんなが集い、行き交う畠町
畠町商店街振興組合のサイトです

それによると、カモヤは大正14年創業とされています。

もう一つが「寺田果物」 現在その店舗はありませんが、寺田果物は「スーパーテラタ」の前身で、創業当時の店舗です。テラタのホームページによると「昭和初期に、寺田繁蔵が津軽リンゴを中心に畠町で青果の卸売を始める」と書かれていました。 つまり、この地図は昭和初期〜昭和15年の間に作られたという事になります。

これらの事から、昭和24年の第一次能代大火で平沢喜三郎商店は焼失してしまった。復興する際に「塚本佐七、山谷俊三、長内歯科医」の土地を得、そこで酒造りを始めたと推測出来ます。その時の看板が、平沢喜三郎商店なのか喜久水酒造なのかは分かりません。 ちなみに平沢喜三郎商店の跡地は、同じ大火で焼失したであろうと思われる「平孫商店」が移転したと推測出来ます。                                  ※万町地図・赤丸印の場所

平孫商店は醸造業を営み醤油や味噌を販売していた様で、当主は代々「平川孫兵衛」を襲名していた様です。現在は廃業しておりますが、かつては能代の名士であった事が「昭和3年・人事興信録」に書かれています。                                       「君は秋田縣人先代孫兵衞の長男にして明治元年十一月を以て生れ同三十九年家督を相續し前名孫之助を改め襲名す釀造業を營み前記銀行の重役にして現に縣下の多額納税者たり
家族は尚孫益(大七、九生、二男直太郞長女)同雅(同一〇、一生、同二女)同悦(生年月同上、同三女)同浩一(同一四、八生、同二男)あり
二女キヱ(明三四、三生)は秋田縣人辻兵吉弟隆吉に嫁せり」

平川孫兵衞 (第8版) - 『人事興信録』データベース
Description

詳細は、上記URLで・・

喜久水酒造の隣にあるため平孫商店は喜久水酒造の販売店舗と思っていましたが、この記事を書く上で調べたら、会社としては全然違う企業である事を知りました。喜久水酒造は「平沢」だし、平孫商店は「平川」。親戚関係にあるかまでは分かりませんが、直系の親戚でない事は確かです。ただ、平孫商店で喜久水を販売していた可能性はあった様に思いました。

 

喜久水は能代の地酒として知られ、数々のイベントも行われて来ました。そのため、能代だけでなく全国的に知っている方は多いと思います。市内で酒を扱う店舗では必ず店頭に並び、全ての銘柄を取り扱っていた酒店もあったと思います。 古地図に載っている老舗「畠町・ランマン屋」では、扱っている日本酒の6割が喜久水で占めていたそうです。 これからの売場作りが大変だと思います。

北羽新報の記事によると、喜久水酒造のピークであったのは平成8年6月期に3億547万円の売上高を計上した。しかし、平成28年6月期以降の売上高からは1億円を下回って推移した。令和元年6月期は赤字決算となり、今年6月期の売上高は5,188万円まで落ち込んだ。当期損失は1,400万円で、累積赤字を抱え込む財務内容であった様です。そういう状況で資金繰りが限界に達し、破産申請へと至った。 原因は、日本酒離れの影響とコロナ禍で宴会が激減した事。そして、5類移行以降も消費が戻らなかった。と、推測されています。 酒店には、先月から思う様に商品が入荷されなかった様です。また、オリジナルのラベルを付けてPB商品として販売している所は、別の対策をする必要があった。

 

喜久水酒造は、独特の品質管理でも知られていました。

 

JR(旧・国鉄時代)の廃線になったトンネルです。このトンネルを酒の貯蔵庫として利用していました。天然の洞窟と同様に、常に一定の温度・湿度で貯蔵出来る様です。

このトンネルは、昭和40年代に汽車が電車化される事に伴い、この路線が廃止されてすぐ隣に新しいトンネルと線路が作られました。

 

レンガ造りの橋桁がまだ残っています。かつての線路跡は藪になっており、足元には当時の敷石を感じる事が出来ます。

そうした品質管理がされた酒は出荷直前まで冷蔵され、直射日光を避けるために一本一本を新聞紙に包んで店頭に並んでいた。 そうした品質管理から、販売店にも厳しい取り扱い条件が課されていたそうです。

そこまで品質にこだわりのあった酒が何故? という思いがあった。 そこにはやはり、日本酒離れの影響が・・・日本酒の消費量を調べてみると・・・

 

1973年をピークに下降を続け、現在は1/3以下まで減少しています。しかし、アルコール類の消費量はあまり変わらずに推移しています。現在では、酎ハイなど種々雑多な物が流通しているためだと思います。 こういった状況に伴い、酒蔵の廃業も進んでいます。酒蔵の規模で見ると、清酒生産量の54%を11蔵で占めている様です。生産量の11%を小規模な酒蔵 1100蔵で生産している。その小規模な酒蔵の約半分が、低収益で経営難にあるという。

 

ただ、売上に対して営業利益は上がっているという。それは、吟醸酒や純米酒といった特定名称酒の生産量が増加傾向にあるためといいます。 ここで最近聞く事が、海外への活路。清酒の輸出金額と輸出量は共に伸びています。 表はいずれも国税庁の2016年・2018年の資料で、現在も上の表で下降・下の表で上昇を続けていると思います。

 

平成15年〜25年までの、県内酒蔵の全国新酒鑑評会受賞記録一覧です。○印が入賞酒で、☆印が金賞酒です。喜久水酒造は、平成18年〜25年まで連続で金賞を受賞しています。秋田県は全国的にも日本酒のレベルの高い県ですが、秋田県の中でもレベルの高い方に位置していた事が分かると思います。

鑑評会に出品される酒は市販酒ではなく、それ専用に醸造するとされています。そのため、出品酒を造るという事は時間も人も費用も多く掛かる事になります。喜久水酒造は平成8年にピークを向かえていた事から、経済的にゆとりが出来て色々と研究が進められた結果かもしれません。

最近では、秋田県新酒品評会で平成29年に吟醸の部門で優等、平成30年に吟醸・純米の部門で優等を受賞しています。しかし、それ以降は受賞記録がありません。令和元年から赤字決算になったという事は、品評会に出品する酒を造る余裕がなくなったという事だろうか? ある意味、資金を得る事が出来れば、また質の高い酒を作れる技術はあるという事になります。

先のグラフで、国内の日本酒需要が下降を続け輸出が伸びている。そんな状況から、輸出に活路を持った酒蔵だけが伸びて行く事になるだろう。日本より欧米の方が物価が高いので、日本での数倍の価格での販売が可能と思われる。輸出するには輸送料が掛かるが、販売量が増えればロット当りの単価が下がる。その分は利益につながる事になります。大きな売上にはならないかもしれませんが、利益は確実に確保出来ると思います。外国で販売されている日本酒の判断基準は分かりませんが、受賞酒というのは大きな目安になると思います。セールスも重要で小さな蔵では難しい面もあると思いますが、自信のある酒で情熱的に売り込めばその可能性も高いと感じます。あと、その国に合った嗜好性を知る必要があり、研究に費用は掛かると思います。逆に、外国で売れれば日本に波及する場合もある。    

 

『楽泉』の破産〜260年の歴史に幕〜
西村醸造店が11月2日付けで破産開始決定を受け廃業をした。能代山本の酒蔵の中で歴史が一番古く、宝暦年間(1751~64年)創業となっている。当時は近江商人系の酒が広まり、能代にも北前船によって運ばれた。秋田県では珍しい近江系の酒蔵です。歴史の古い酒蔵がなぜ・・

6年前に「楽泉・西村醸造店」が倒産しました。現在、能代山本で残っている酒蔵は「白爆・山本醸造」一軒だけです。過去の栄華にあぐらをかいていては、どんな銘酒もすたれてしまいます。喜久水酒造がそうだったとは思いたくありませんが、白瀑・山本酒造は様々なアクションを起こしていると感じます。一方の喜久水酒造は、十年以上前から変わらないチラシに見えて新しい商品が見当たらない。知らないだけかもしれませんが、何かそう感じます。 そうだなぁ〜、能代市がそうだったなぁ〜。それが今の能代市の現状を作っていると感じます。

 

昔の能代地図を見て感じた事ですが「木都能代」と呼ばれただけあって木材工場が多い。それに関連して、材木店や樽屋などの木材加工会社が多い。(現在、樽屋は能代に一軒しか残っていない) 特に万町・大町・清助町は、港に通じる路線に木材関連の会社が並んでいる。まるで、工業団地の中に民家がある様にさえ感じます。米代川を利用して多くの秋田杉の原木が集まり、それを加工して能代港から積み出す。それだけ材木の需要が多かったと知る事が出来ます。

商店の数が多い!

現在はシャッター通りとなっている畠町に、数多くの店が並んでおり人通りもある。種々雑多な店が多いのは、当時はショッピングセンターなどが無いから商店街がその役割になった。あと、現在より多くの旅館が見られる。出張や荷役で能代に来る人も多く、町に活気があったのではと想像が出来ます。

 

新聞で喜久水酒造の倒産を知って、すぐに喜久水の酒を買いに行きました。最近はほとんど日本酒を飲まないのですが、これが最後の喜久水と思い今後は飲む事が出来ないと思うから・・・

 

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自分が選んだのは、喜久水の普通酒。かつての等級は二級酒で、一般的に家庭で飲まれていた酒です。飲み納めに何故これを選んだかというと、今までで一番飲んで来て馴染みのある酒だから。冷やより燗が合うから、雪が降る頃になったら燗をして飲もう!

 

この3本は友人に送りました。

純米吟醸 「紬〜TSUMUGI」

秋田の酒米、秋田酒こまち100%使用。
やや辛口でキレがよく、スッキリとした後味。
どんな料理にも相性ピッタリな純米吟醸酒です。

特別本醸造 「三本線能代」

高校バスケットボール界の頂点に君臨する能代工高バスケ部。
その専用靴下の三本の線がデザインされています。
この三本の線にはそれぞれインターハイ、国体、ウインターカップの意味が込められており、同時に「三冠全て勝ち取る」という熱い思いが込められております。
全国の中学、高校生がその靴下に憧れスポーツ店を探し歩いたものです。現在は入手も困難になり、デザインも大幅に変わってしまいましたが、やはり三本線は残されています。

銘酒雪降仕込 「喜久水」

雪が降れば秋田美人の顔は赤い唇と黒い瞳のみ残りあとは雪に融けてしまう、これも美人の要素。 普通酒で、かつての等級で一級酒。                                                        ※喜久水酒造のホームページから

いずれも特別な物ではなく、一般的な清酒です。選んだ基準は特になく、それぞれの味に違いを感じると思ったから。 あと、物自体が少なかった。思い通りの入荷が無かった事や、この報道を見て急いで買いに来た人もいたかもしれない。

ただ一つ 心残りに思うのは、喜久水には「一時」という季節限定の清酒があります。1月or2月に一瞬だけ販売されていた物です。この時期になると気には掛けていたのですが、気付いた時にはもう残っていなかった。 一時を、一度だけ購入した事がありました。清酒としては珍しい、強発酵の生酒です。酒には「危険! 取り扱い注意」的な事が書かれている。何が危険かというと、発酵中のガスが瓶の中に充満している。そのガスを少しづつ抜きながら栓を開けなければいけない。その事を怠ると、シャンパンを開けた時と同じ状況になる。 自分が一時を購入した時、家に帰ったら丁度 客人が来ていました。ジャストタイミングと思い、一時を振る舞おうと思った。忠告を忘れいつも通りに栓を開けたら、栓が天井まで吹っ飛んだ。そして中身も天井まで吹き上げ、1/4位は天井に飲ませる事になってしまった。運んで来たばかりだったから、振動も加わっていたからかもしれない。その印象が強く酒の味は覚えていないが、日本酒としては類のないインパクトのある酒だった。 それを友人に飲ませられなかった事が、心残りです。

「喜久水酒造倒産」報道からおよそ一ヶ月。何か、倒産を回避出来そう!

 

記事によると、能代市内の複数の企業から事業の引取を希望されているらしい。その事を受けて、現在は倒産の手続きをやめて喜久水を残せる様に方向転換をした様です。そこには、M&Aの話も多数あった様です。

負債額は、約1億2千万円でした。中には債権を放棄する所もあるかもしれませんが、事業を引き継ぐには残りの債務も引き継ぐ事になります。能代には他に醸造会社はないので、全然関係のない企業が引き継ぐ事になります。もしくは、複数の企業が共同で引き継ぐ可能性もあります。いずれにしろ、「喜久水」のブランドが残る可能性はかなり高いと思います。

近年 受賞歴はありませんが、元々は評価の高い酒を作っていました。資金が調達出来れば、また昔の様な酒を作る事が出来るかもしれない。酒造りとは関係のない企業が引き継ぐ事で、従来とは別の視点で酒造りが出来たり、販売ルートも拡がる可能性があります。

どの様に変わるか分かりませんが、すごく楽しみです。

 

 

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