北前船

去年の6月に全国26自治体が加盟し発足した 北前船寄港地日本遺産登録推進協議会 が作成したストーリー 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜 が、文化庁の日本遺産に認定された。能代も北前船との結び付きが強いという事で、北前船にまつわる文化財の発掘・整理、地域ぐるみで活性化を図る仕組みづくりの検討などに取り掛かる。 と、新聞に載っていた。そして、遅ればせながら 北前船寄港地日本遺産推進協議会 への加入を目指し 日本遺産 追加認定探る とある。

北前船とは、江戸時代に北海道から大阪に向け、日本海側を通り物資を運んだ貿易船の事です。 能代の港は県内で最も歴史が古く、658年から使われたといわれている。 その港から秋田杉や阿仁の銅を、日本海側の輸送拠点として、北前船による交易が盛んだったとされている。その港を持つ能代が発足時になぜ加盟しなかったかというと、北前船に関する資料がほとんど残っていない状況だそうです。能代は近年に二回の大火があり、当時あった土蔵の73%が焼け落ちたそうです。
当時のデータ
昭和24年 2月20日 午前0時30分頃発生
罹災棟数 2238棟  罹災人員 8790人  消失率42%
昭和31年 3月30日 午後10時50分頃発生
罹災棟数 1575棟  罹災人員 6087人  消失率20%
木材で栄えた街だけに、可燃物がたくさんあった事で被害が大きくなった事も原因であります。それにより資料を焼失してしまった様です。

北前船による経済効果は、莫大な額だったと思います。 近辺の豪商で有名なのは
酒田 本間家
江戸時代から、日本一の大地主といわれていたそうです。北前船での貿易で巨額の富を得、その利益で酒田の土地を買い上げていたそうです。そのため、豪商であり・豪農であり・大地主だったわけです。しかし戦後GHQの農地改革により,1750haあった農地が4haまで減り、あとは山林や牧場のみが残された様です。その後本間家の給仕であった方が、本間物産を立ち上げ本間家を持ち直した感じになりましたが、詐欺師みたいな人に会社を乗っ取られた結果、倒産に至ったという事です。能代にもマルホンが出店して来て本間家の事を知ったのですが、その本間物産の倒産は驚きました。能代には小金持ちはいたかもしれないが、豪商と呼ばれる方は存在しなかったと思う。秋田県人は 殿様商売 と揶揄される程で、商売が下手だったのではないだろうか?

北前船による交易では、物資だけでなく人や文化の交流もあったと思います。特に、北海道・松前との交流は盛んだったのではないかと感じられます。それは ことば です。自分達のしゃべる言葉は、津軽弁より北海道弁に似ているのではないだろうか? と思うからです。同じ県北でも、大館の方のしゃべる言葉とは少しイントネーションが違うのではないだろうか? と感じるからです。 同じ沿岸部の秋田市と同じ言葉では無いかな? と感じます。 それは北前船の寄港地として、人の交流が行われていたからではないだろうか。

復元された北前船に一度乗った事があるが、それほど大きな船ではありませんでした。なぜ北前船が栄えたかというと、潮流の関係だそうです。 太平洋側の黒潮の潮流が強く、小さな船では大変だったからではないだろうか。しかし、日本海側の冬の荒波は大変なものです。 だからその期間は運休をして、3月下旬ころに大阪を出発して、5月下旬ころに北海道の到着。そして、7月下旬ころに北海道を出発して、11月上旬頃に大阪に到着というスケジュールで運行をしていた様です。

今後 能代では北前船寄港地として認定をされるべく準備をするようですが、この過疎地活性化のためにも、是非とも認定を取り付けてもらいたいものです。

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