秋田は産油国〜豊川油田

去年から、ガソリンや灯油などの石油製品の価格がすごく高くなった。そして、現在もその価格上昇が続いている。原因となったのが世界的なコロナ感染で、その影響で石油の需要が減った。その後 感染拡大が緩んだ事によって石油の需要が増えたが、OPEC諸国では今後の見通しから原油の増産をしなかった。そのため需給のバランスが崩れ、原油価格が高くなったとされている。その後、ロシアによるウクライナへの侵略があり、先の不透明感から原油先物取引の価格が上昇していた。それに加え、ロシアも原油や天然ガスを多く産出している国である事から、相場に不安定感をもたらしている。

日本は原油や天然ガスのほとんどを輸入に頼っている国である事からその影響は大きく、ガソリン・灯油の価格上昇の続いている事をニュースで聞く事が多い。元売り会社への国からの補助金で極端な上げ幅にはなっていないが、補助金で調整されているため上げ止まりが続いている様に感じます。アメリカなどではガソリン価格が倍くらいになっている様ですが、日本がそこまで上がらないのはガソリン価格の多くが税金である事。そのため、日本のガソリン価格は世界的にも高い位置にあると思います。今後、ガソリン税のトリガー条項が発動されればもう少しガソリン価格が安くなるのだろうか? ただ、それが発動されたとしても、   170円台で高止まりするのではないだろうか。ガソリン税は道路の維持などに多く使われているため、税収が減ると地方に配分される金額が減る事になる。地方では国からの交付金の比率が大きいため、それが減る事によって維持の難しい部分が出て来る。特に土建屋は道路の維持管理が多くの仕事と思うので、土建屋にとっては死活問題になるかもしれない。

日本で使われている石油のほとんどは輸入されている物ですが、日本国内でもわずかながら原油は産出されています。その一角にあるのが秋田県で、秋田県は産油国なのです。本来であれば、中東の様にオイルマネーが溢れ景気が良いはずなのだが・・・ たぶん、秋田県の経済力は国内でも下の方にあると思います。根本的にその産出量が少ないためだろう。 統計によると、国内の原油の産出量は1954年で全使用量の5%を賄っていた。しかし、2019年には全体の0.3%でしかない。つまり、国内で産出される量は微々たるもので、ほぼ100%を輸入に頼っている事になる。

   

国内生産量に多少の波は見えるものの、全体から見た量は少ないのでほぼ一定の生産量が維持されている。それなのに国内生産の構成比が低くなっているのは、石油を消費する量が増えたという事になる。右側のグラフでは、特に1960年代〜1970年代に急激な伸びになっている。日本の高度成長期で、石油を多く使う様になった事からだと思う。一般家庭でも自家用車が当たり前になり、プラスチックなどの石油製品を多く使う様になったためだろう。しかし、2000年頃からは減少傾向にある。再生可能エネルギーや原発、エコカーの普及によってその消費が抑えられて来たのかもしれない。2050年までにカーボンニュートラルを目指す事で、その消費は抑え続けられる事になるだろう。産油国で紛争が起きるたびに、その供給に支障が生じる。資源を持たない日本にとって、産油国に頼らない国にしていかなければならない。 フランスでは、原発を増やす計画であるという。確かに二酸化炭素を放出しないクリーンエネルギーではあるが、一つの事故でその被害は莫大なものになる。福島やチェルノブイリが代表的ですが、今回のウクライナ侵略でも原発が狙われた。ロシア側に破壊する意図は無い様に思われますが、もし原発を破壊するつもりであれば核ミサイルは必要がなく、通常のミサイルでも同等の効果を得る事が出来る。国際的に認められる事ではないが、狂気の指導者や窮地に陥れば道連れに行う可能性もある。原発は、けしてクリーンエネルギーではないと思います。

秋田県の油田は秋田市近郊に多くあり、今も採掘が続いています。

この様な井戸をいたる所で見る事が出来る。これら井戸のある一帯「八橋油田」は、昭和30年代まで国内最大の産出量であったとされている。かつての秋田県は国内生産の70%以上を産出する石油王国と言われ、本当の産油国であった。最盛期にには大噴出も発生し、流れ出た原油は草生津川(くそうづがわ) まで達し、その流域を汚染するまでであった。「くそうづ」とは石油の和名で「臭い水」という意味らしい。臭生津川では地域の印象が悪くなるので、草という字を当てはめたのかもしれない。草生津川流域の秋田市八橋・寺内地区は、古くから油の滲み出ていた場所があった様です。

秋田で商業的に油田の開発をしたのは明治に入ってからです。江戸時代 自然湧出の原油を八橋戌川原で発見した「油屋・千蒲善五郎」が、明治元年に東京で石油ランプの明るさを知り、明治3年に製油所を設立した。明治5年からランプと石油を販売した事が秋田の石油産業の始まりとされている。 明治6年から本格的な石油会社を作り、濁川・黒川・小国などに油田を開発した。しかし、技術的に未熟であったため何度も火事になり、経営を続ける事が困難になってしまった。そのため、明治23年に全ての事業権利が日本石油に移った。日本石油が本格的な油田開発をしたのは、昭和10年からの様です。昭和6年に満州事変が勃発し、昭和12年から日中全面戦争に発展した。石油の安定供給が急がれていた時期であったのかもしれない。

秋田市に隣接する潟上市には「豊川油田」がある。

八橋油田より北に、直線距離で10kmくらいの所にあります。八橋油田よりも湧出量が少なかった様ですが、以前 NHKの番組「ブラタモリ」でここが取り上げられた事があった。そのため、八橋油田よりも豊川油田を知っている人が多いかもしれない。その放送に合わせてか、豊川油田展というモノが「豊川油田の歴史を伝える会」主催で行われた。

豊川油田の歴史を伝える会(潟上市昭和) | 秋田がいちばん!
豊川油田や石油操業関連施設、天然アスファルト露出地の保存・活用を通して、豊川油田の歴史を伝え地域の活性化を目指す「豊川油田の歴史を伝える会」

自分が豊川油田の存在を知ったのは数十年前で、TVで豊川油田の特集を見たのが初めてであった。その光景にすごく興味を持ち、実際に自分の目で見てみようと思いその場所に行った事があった。

豊川油田で油が製造されたのは江戸時代末期の1790年頃で、「黒沢利八」という人が天然アスファルトから灯火用の油を製造したのが始まりとされている。

天然アスファルトは縄文時代から利用されており、豊川地域近郊の遺跡からは土器や矢尻などの接着剤として利用された物が出土されている。また、天然アスファルトを産出しない地域でもアスファルトを使った物が出土されている事から、他の地域とも交流があったと推測できる。 豊川油田は天然アスファルトの日本最大産地とされており、明治11年(1878年)に東京の神田昌平橋で施行された橋面舗装で、豊川油田の天然アスファルトが使用された。この橋面舗装が、日本で最初のアスファルトを用いた舗装であるとされている。

ブラタモリを見てから、それまでその存在を忘れていた豊川油田に改めて興味を持った。そして、豊川油田展が開かれるという事で、会場である「ブルーメッセあきた」に行って来ました。

ブルーメッセあきた オフィシャルサイト
道の駅しょうわ ブルーメッセあきたには、「花の町」と言われる潟上市昭和地区で生産された新鮮で丈夫な草花をはじめ、産直野菜や地元の特産品を豊富に取り揃えたアグリプラザ昭和をはじめ、レストラン・鑑賞温室・芝生広場・グラウンドゴルフ場等がございま...

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ブルーメッセあきたより先にある豊川地区入口には「石油の里」の看板が設置されていた。この看板にイチャモンを付けるとするならば、ナウマンゾウ?マンモス?は数十万年前に生息していた生物。原油はそれよりも古く、数千万〜数億年前の生物から変化した物。太古の遺物である事を表現したかったと思うが・・・ま、どうでも良い事です。 ブルーメッセあきたの一室で行われた豊川油田展は、狭い会場であったためその見学にはそれ程の時間は掛からなかった。一通り見てから、現在の豊川油田に行って見たくなった。数十年ぶりの再訪です。

明治35年頃の天然アスファルト(土瀝青)の採掘地の写真です。機械類は無く、全て手掘りで採掘している様に見えます。天然アスファルトの採掘中に、ナウマンゾウの化石が出土した。(だから看板なのかな?) 太古の昔、アスファルトの泥にハマり、身動きが取れないまま息絶えたのだろうか?

天然アスファルトの生産量は年間300〜500トンで推移して来たが、需要が増加した事でその生産量は十倍に達した。道路舗装などで需要が急成長したのだろう。しかし、その生産量は明治42年の4,173トンをピークに下降線をたどり、大正11年以降はほとんど採掘されなくなった。アスファルトの需要はまだまだ伸びるはずなのだが・・・ 採掘をしなかった理由として、資源の枯渇があった。それと、大正8年以降から石油系アスファルトの増加による所が大きい。

土瀝青(天然アスファルト)採掘跡地として、野天堀した穴に水が溜まり沼の様になっている。

岸辺には、土瀝青から漏れ出た油がこびり付いている。

岩瀬露頭と呼ばれる場所で、土瀝青採掘跡地から少し離れた場所にある。崩れた崖の地層に黒っぽい部分が見える。たぶん、この部分に土瀝青が埋まっているのだろう。ちなみに、豊川油田にも草生土という地名がある。たぶん、秋田市の草生津川と同じ所以だと思う。

大正11年以降は天然アスファルトの採掘は行われなくなった訳ですが、大正2年に深度413mで出油が確認された。それが豊川油田の始まりで、天然アスファルトの採掘と並行して油田の開発が始まった。

大正7年(1918年)頃の画像ですが、出油が確認されてから5年で多くの井戸が立ち並ぶ様になった。最初は中外アスファルト(株)によって開発が始まったが、大正7年時点では日本石油(株)・中野興業(株)・大日本鉱業(株)・小倉石油(株)等の会社が参画する様になっていた。 大正10年には、年産で87,000klに達する様になった。この頃の豊川油田は、大半が日本石油(株)によって操業される様になった様です。 戦時中は帝国石油によって管理される様になり、日本石油(株)・小倉石油(株)等は帝国石油と合併する事になった。石油資源の乏しい日本にとって石油施設は重要で、日本中の全ての石油が国によって管理されたのかもしれない。

昭和31年に帝国石油は豊川油田を東北石油(株)に売却したが、その時の井戸数は222抗あり、年産で7,000kl程であった。ピーク時の1/10以下の減産になった事になる。その後、5年間に15抗井の試掘を行ったが、その全てが失敗に終わった。 平成13年(2001年)には、豊川油田における原油の採油を停止した。その時点での採油量は、年産540klであったとされている。現在は、若干量の天然ガスを生産・販売している様です。

自分が数十年前に豊川油田を訪れた時には、まだ稼動している様に思われた。 TVで見た豊川油田の何に興味を持ったかというと、その井戸の形にあった。現代的な井戸は昔から見た事があって、こんな小さな井戸で原油を汲み上げているんだ! と思っていた。しかし、豊川油田は昔の光景そのままの様に思えた。

豊川油田を再現したジオラマですが、井戸を支える櫓は木製であった様な気がする。そして全ての櫓がワイヤーでつながれ、一台のモーターによってそのつながれた井戸が動く。その姿は、まるで大正時代にタイムスリップした様な光景に感じた。人の気配がしない山中に、その櫓が「ギーコギーコ」と鳴り動く姿に不気味さを感じ、怖さを感じた。夜中に山の方からその音が聞こえても、近隣住民は何とも感じないのだろうか? 自分が製鋼の静けさに不気味さを感じる様に、慣れでむしろ音の無い方が不気味に感じるかもしれない。

2年程前に訪れたその井戸は、櫓の鉄骨だけを残し朽ち果てている。やはり、自分の記憶通りの木製の櫓だったのだろうか?

近くの小屋には、その櫓を動かしていた当時のモーターがそのまま残っていた。この場所以外にも鉄骨だけの櫓跡が残り、朽ち果てた小屋が藪の中に見えた。かつてこれが油田であったとは思えないかもしれない。

能代市の隣、八峰町(旧峰浜村)にも原油が滲み出ている場所があると聞いた記憶がある。

「蝙蝠淵」という場所で、地名だけは覚えている様な気がする。しかし、その川は清流でとても油で汚染されている様には見えない。

江戸時代にこの地を菅江真澄が訪れた様で、この地の事を書いている。何かヒントはないかと探したが、何も見付ける事は出来なかった。出来れば、現代文に訳した物を書いてくれると助かるのだが・・・  蝙蝠淵について色々と調べてみたが、ここで油が滲み出ている様な事は何処にも見付ける事が出来なかった。

蝙蝠淵を流れる水沢川の上流に、水沢ダムがあります。このダムの近くに硫黄泉の湧き出ている場所があった。当時の峰浜村ではこの場所を整備して、誰でも硫黄泉を汲む事が出来る様にしていた。この硫黄泉は、温泉ではなく冷泉でした。自分もポリタンク一本を持って汲みに行った事があるが、一本を貯めるには少し時間が掛かった。硫黄のニオイが強く、高濃度の鉱泉の様に感じた。風呂として使うには温める必要があるが、ボイラーに悪影響が有りそうで一回限りでやめた。今も湧き出ているのだろうか? 秋田県で、日本海沿岸から硫黄泉が湧き出るのは珍しいと思う。石油と硫黄泉に何か因果関係はあるのだろうか? と、ふと思った。もしあるのならば、蝙蝠淵に原油があるのかもしれない。その関係について調べてみたが、それを示す物は何も見付からなかった。

秋田県は産油国と書いたが石油王国であったのは昔の話で、現在の産出量は減少傾向で枯渇に近付いているのかもしれない。そんな中で、新たな試掘も続けられて来ました。1968年の報告書では、大潟村で原油と天然ガスの自噴があったという。この井戸と周辺の井戸を合わせると、八橋油田の最盛期に匹敵する大油田になると期待された。しかし、大潟村の油田の事は今回初めて知ったので、その期待はハズレだったのかもしれない。たぶん、秋田県の日本海沿岸部ではどこにでも油脈があるのでは? と思った。問題はその埋蔵量で、まとまった産出量がなければ開発費をまかなう事が出来ない。 海底油田の試掘も行われましたが、現在は採掘を行っていない様です。豊富な埋蔵量があると期待されているが、陸上の油田より経費が掛かるなどで商業ベースに合わないのかもしれない。むしろ輸入した方が安いと思ったかもしれない。海底油田の試掘は峰浜村沢目沖でも行われた様で、その延長線上に蝙蝠淵がある。やはり、蝙蝠淵には油脈がある! 事にまちがいがない! と思う。

秋田県では、今後も油田開発を行うのだろうか? もし行うとすれば、海底油田とシェールオイルの開発になると思う。しかしそれらは、商業ベースの問題と海洋汚染の問題がある。それに加え、脱酸炭素化を目指す中で中々難しい様に思います。 現在は秋田県沿岸全域で「洋上風力発電」が建設中です。安全な脱炭素化を目指すのであれば、再生可能エネルギーの開発しか方法はない様に思います。漁業や景観、その他の悪影響について反対の声もあるが、エネルギーの自給率を上げる事が急務の様に思います。何か紛争があるたびに生活が困窮するという事は、なくしていかなければならない。

能代市では、風力発電を使って水素を製造する事業が始まっている。

今後は、他国に頼らないエネルギー資源を持つ事が重要と感じる。けして遠くない未来、再生可能エネルギーと無尽蔵にある水素を活用する事によって、化石燃料不要の時代が来る様に開発を急がなければならない。今回のウクライナ侵略によって、その開発は加速するかもしれない。

 

 

 

 

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