日本海中部地震は、1983年5月26日・午後0:00に発生した。地震の規模は、マグニチュード7.7・震度5(感覚的にもっと強い揺れの様に感じた)。震源地は、能代沖100km・深さ5kmとされています。 その地震から、今年で35年になる。
秋田県では5月26日を「県民防災の日」と制定し、能代市でも24日に防災訓練が行われた。市民等、約550人が参加をしたと新聞に載っていた。
日本海中部地震により、能代市でも多くの被害を受け多くの人命が失われた。
能代市の幹線道路である能代バイパスも、いたる所で隆起や陥没が起こり通行不能の状態になった。その他の道路もズタズタになり、液状化現象も起こった。その他建造物にも被害を受けたが、昼時でも火災が発生しなかった事は幸運だったと思う。
秋田県の中でも、能代市の人的被害が一番多かった。それは津波によるモノがほとんどで、当時の能代港工事にたずさわっていた方に多くの犠牲者が出た。 地震発生から約20分後に第一波が押し寄せたが、ほとんどの方が津波の発生を予測しなかったと思う。その時、自分の父親は河畔公園辺りの工場に勤めていたが、米代川を遡上する津波を初めて見たと言い、自宅が心配になりすぐに帰宅したと言う。 自分は商談のため事務所に居たが、地震発生と同時に揺れで身動きが取れなくなり動き回るコピー機を必死で止めていた。そして、揺れが収まってから駐車場に避難した。まだ余震が続いていたため店内に入る事が禁止され、そのまま家に帰る事になった。
帰り道で市内の状況がどうであったか覚えていないが、家の近くの道路に地割れが発生していた。20cm程であったため通り切れるかと思ったが、結局スタックしてしまいトラクターで引き出してもらった。地割れというモノを初めて見たし、物心ついてからは一番大きい地震だったと思う。能代に居ては、東日本大震災よりも揺れが強かったと感じた。自宅は無事でどこにも損傷はなく、家の中の物も大きな被害はなかったと記憶している。ただ、自分の部屋の本棚が倒壊して本が散乱していた。もし夜中に地震が起きていたら自分は本棚の下敷きになっていて、今頃この世には存在してなかったかもしれない。
翌日店内に入ったら、中は凄惨な状態になっていた。現在の容器はペットボトルが主流だが、当時はガラス瓶が多かった。そのためいたる所の商品が割れ、異様なニオイを発していた。それでも翌日には営業をするという事で、それの後片付けが大変であった事を覚えている。 地震発生は木曜日で、前日の水曜日は定休日であった。その水曜日には、年に一回の店内大掃除が行われた。その翌日であったから、後片付けには余計虚しさを感じた。
当時の自分は釣りに夢中になっており、毎週水曜日の定休日に職場の仲間と釣りに出掛けていた。もし水曜日に大掃除が行われず地震が水曜日に起きていたら、今頃は自分がこの世に存在していなかっただろう。
能代港の一画に芝生公園があり、そこに津波で犠牲になった方の慰霊碑が建っている。
慰霊碑の近くには「はまなす展望台」と、写真の左側には「はまなす画廊」という市民などが防潮堤に書いた絵が並んでいる。数年の内に、この公園の数百m沖合に「洋上風力発電所」が出来る予定になっている。
地震後の生活はどうだったのだろう? 電気は比較的早く通ったと思うし、自分の家は井戸水であったためそれほど不便を感じなかったと思う。それよりも東日本大震災の後の方が不便を感じた。それは三日間停電が続いた事が原因です。ほとんど物が電気で動いているため、ほとんどの物を使う事が出来なくなった。
災害時にはアウトドア用品が役に立つ。しかし、持っていても使えなければ役に立たない。先日、登山をやっていた頃に集めたアウトドア用品を整理しながら、メンテナンスが必要だな! と感じた。 ・・・・ ・・・・
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