能代山本

日常

招かれざるもの

白神山地の核心地域でニホンジカが確認された。場所は青森県鰺ヶ沢町の赤石山国有林内で、自動撮影装置に写っていた。最近では、ニホンジカだけでなくイノシシも確認されている。両者とも、個体が増えて餌場を求めて北上しているのだろう。昔は狩猟を生業とするマタギが・・
日常

第30回おなごりフェスティバルin能代2017

おなごりが畠町通りで開催され、県内外から12団体が参集した。毎年、おなごりが終わった事で夏祭りが終わり秋を向かえる感じになります。おなごりには、天空の不夜城が参加していない。畠町通りには電線があるので運行が出来ないためです。その打開策を考えてみた・・
日常

イオンの出店計画

イオン新能代ショッピングセンターの概要が判明した。しかし、「誘致ありき」の予測になっている様で甘く感じる。この予測は誰が立てたのだろう?まさか、イオンに聞いたのではないだろうか?イオンはどこの店も同じなので出店に魅力を感じない。秋田・青森・岩手に無い店・・
日常

戦争の痕跡

能代にも戦争の痕跡があり、能代西高の敷地内に能代飛行場の弾薬庫が残っている。しかし、能工・能西の統合により解体されるかもしれない。風の松原では、松根油採掘の痕跡が多数見られる。戦争末期には、物資不足から木造船の工場が作られた。そこで建造された船は・・
日常

不法耕作

桧山川運河護岸工事現場の上部に耕作地があって、そこが削られ崖の様になっている。栽培中の畑が強引に削られているという事は、ここは不法耕作かと感じた。河川敷で中国人による不法耕作が、テレビ等で問題にされた事がありました。米代川の河川敷でも不法耕作が・・・
日常

桧山川運河

能代市内地には「桧山川運河」という人工物の川がある。昔の木材の運搬方法は、丸太を組んで筏にして川を下って運んでました。桧山川運河の役目は、陸揚げされた木材を保管するための水中貯木場だとされている。輸送がトラックに変わった後は利用されなくなり、桧山川運河は・・・
日常

久しぶりに床屋へ行った

5〜6ヶ月ぶりに床屋へ行った。かなり伸びてしまった髪に「あら〜!」と驚かれた。その床屋は、数年前に旦那さんが亡くなってから奥さんが1人でやっている。その後、その床屋がおばあさん達の社交場になっている。床屋に行くと必ず見掛けるおばあさんがいたが・・
日常

斎藤食品の廃業

八峰町で仕出し・食堂・食品販売をしている、斎藤食品が廃業した。廃業の原因は、地域の人口減や高齢化が要因で、主力である仕出しの売上の減少が大きな原因です。ここは、年に数回程利用する美味しい店だったので、ナゼ?という感じで驚きました。仕出し業の斜陽の原因は・・
日常

日吉神社御神幸祭

7月25日より、祭りが始まった。御神幸祭と呼ばれる日吉神社の祭典は、祭神がかつて祭られていたひより山の御旅所にご神体が里帰りをするという行事です。350年余りの歴史があり、5基の丁山と神輿が運行されます。神輿担ぎに参加しているのですが・・・
日常

水害

九州北部では雨による甚大な被害が発生している。気象庁からは特別警報という言葉を聞く事が多くなり、かつて経験のした事のない大雨という言葉もよく聞く様になった。連続して積乱雲が発生して、一カ所に大量の雨を降らせるというバックビルディング現象。地球温暖化?
日常

七夕

七夕祭りは各地にありますが、旧暦の7月7日頃である8月の初旬〜中旬にかけて行われる事が多い様です。東北で有名といえば仙台七夕まつりですが、有名ではないけど能代にも七夕があります。明治時代には16mの高さの灯籠が作られており、現在はそれを再現した・・
日常

公設市場の閉店

公設市場は1976年に駅前で開店し、300坪の売り場に18店舗が入っていたが、数年前には7店舗までに減少し、やがて経営者の高齢化などにより3店舗まで減少していた。今年の2月に基幹である鮮魚店が急に撤退し、その時点で存続を断念した様です。現在の2店舗は・・
日常

檜山茶

檜山城主・多賀谷氏の時代、1730年頃に京都の宇治より茶の実が持ち込まれました。その実を一帯に植えたのが、檜山茶の始まりです。檜山茶は江戸時代に植えられてから280年間、品種改良もされずに栽培されてきました。現在は2戸で栽培されており、北限のお茶として・・
日常

檜山城

市街地より10km程行った所に、人口1000人弱の桧山地区がある。ここは、かつては殿様が住んでいた所です。檜山城は、1456年に安東氏が築城を開始して1495年に完了をしたとされている。その後は、多賀谷氏が城代となり1620年に廃城になった。
日常

学校統廃合

近年、学校の統廃合が急速に思える。子供の人口が減少している状況では当然ありうる事ではあるが、それにしても急に進んだ様に感じる。能代市でも10年程前から学校の統廃合が進み、母校が2007年3月31日に廃校になった。かつては市内で1〜2番の児童数であったが・・