檜山城

市街地より10km程行った所に、人口1000人弱の桧山地区がある。 かつては殿様が住んでいた所です。


檜山城は、1456年に安東氏が築城を開始して1495年に完了をしたとされている。 その後は、多賀谷氏が城代となり1620年に廃城になった。 現在は城跡だけが残っている。2016年から発掘調査を始め、本年度も2回めの発掘調査が始まったと新聞に載っていた。新聞には、檜山城の”なぞ”解明へ とある。2026年度までに調査を終え、史跡公園として整備する様です。

1495年といえば、戦国時代に入った頃になります。檜山城でも合戦があった様ですが、お家騒動の様な合戦であった様です。 150日間の籠城の末、勝利を手にしたとありました。そんな事から、かなり強固な要塞だったのではないだろうか。
安東氏は、安倍貞任の後裔であるとされています。その安倍貞任であるが、安倍晋三総理の先祖であり安倍総理は末裔であると公言しています。 安倍貞任 (1019〜1062) 平安時代中期の武将で、岩手県を中心に支配をしていた様です。1062年に源頼義との合戦により戦死。 その時に、貞任の子 高星丸  が青森県藤崎に落ち延び、成人した後に安東氏を名乗ったとされています。


安倍貞任の甥 藤原清衡は、中尊寺金色堂で有名な奥州藤原氏の初代当主です。源頼義の5〜6代の後裔が、有名な源頼朝です。 安東氏は鎌倉時代になると、地方の豪族として幕府から 蝦夷管領 を任じられ、やがて蝦夷地の物流などの交易権を手に入れ、莫大な利益を持つ様になったといわれている。その時に活躍したのが 安東水軍 ではなかっただろうか。

歴史的事象をかなりスルーしてますが、こんな感じの流れで進んだのではないだろうか? 知識的に乏しいので色々と調べて書いてますが、けねあだま では中々飲み込みが難しくかなり疲れました。中にはまちがった記述もあるかもしれませんが、御容赦願います。

かなり一服して、つづき。

安東高星丸は藤崎城を拠点にしてましたが、隣接する津軽半島に拠点を移します。津軽半島には しじみけっこ で有名な十三湖があります。十三湖は海に面した汽水湖です。その十三湖にあったのが 十三(とさ)湊 です。 その十三湊を拠点にしていたのが 安東水軍 です。 やがて十三湊は、日本の三津七湊に数えられる位に栄えたそうです。

(当時の十三湊の町並みと、現在の画像)
安東水軍は、唐に工師を派遣して航法や造船技術を習得させ、大型船建造のために匠達を帰化させた。そして、その船で日本全国はもとより外国にまで航路を伸ばした。(1975年に、東日流外三郡誌という古文書が発見された。朝鮮・中国はもとより、アラビアの方まで航路を伸ばし商圏を広げた。しかし、1340年に大津波により、壊滅した。と書かれていたが、その古文書は偽物であったらしい。その後の遺跡調査でも、津波の形跡は見られなかった。) 安東水軍に関してはほとんど資料がなく、謎が多かったために偽物の文書が作られたのではないだろうか。

奥州藤原京の中尊寺金色堂は、安東水軍によって支えられ、平泉から十三湊に至る道は 黄金ロード と言われても良いのではないかとされている。安東氏とゆかりの深い奥州藤原氏において、1189年に源義経が源頼朝の計略により、藤原泰衡によって殺害された。 しかし、その4〜5ヶ月後には、源頼朝によって奥州藤原氏は滅亡された。しかし、義経は生きながらえて北上し北海道に渡り、果ては大陸に渡りジンギスカンになったという義経伝説がある。 義経伝説に関する著書が江戸時代から出ていて、各地にも義経に関する痕跡が残されているといわれている。義経が安東氏を頼り北上を続けた可能性はあるし、安東水軍の力により大陸に渡る事も十分可能だったと思います。

室町時代中期に安東氏は南部氏に津軽を追われた。 1456年に今の山本郡を領していた、葛西秀清を滅ぼした。そして安東氏が、桧山に本拠を構えたとある。秋田という地名は、安東氏が1589年以降に秋田氏と名乗り、以後 秋田という地名が残った。

桧山地区はとても静かで風情のある場所です。檜山城跡の近くには多賀谷氏の菩提寺 多宝院 があり、しだれ桜は目を楽しませてくれます。

代々引き継がれてきた、北限のお茶 桧山茶

安東氏と共に移った落人から代々引き継がれ、昔の製造方法を守っている 桧山納豆

桧山地区では史跡公園の計画もあり、地元を盛り上げようというプロジェクトも進んでいる。バイパスが出来てからは、桧山の町中を通る事もなくなりました。
先日 テレビに桧山の町並みが映って、懐かしさを感じました。

 

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