能代の商店街

最近、昔の能代の住宅地図を見ている。しかし原本でないため、いつの時代の物かは定かでない。その中で一つ目安になるものを見付けた。


偕楽社は秋木の保養施設の様なものとして利用され、明治40年から昭和の初期まで使われていた事がハッキリしている。だから大雑把であるが、その頃の地図だろう。 地図を見ていると多くの商店や会社は無くなっているが、老舗といわれるものや、個人商店・民家は残っているものもある。それをたよりに自分の子供の頃の記憶と現在の街並み重ねると、当時の映像が想像出来そうだ。

能代の町作りの始まりは、桧山城・安東尋季の家臣が1556年に「材木支配と町支配」を命ぜられて大町に引き移った年とされている。その後、北前船によって材木及び商人の町として発展する事になる。能代は木材を扱っている所が多かったため、火事も多かった。特に、戦後の二度の大火により街は大きく変わった。


第一次大火は、昭和24年2月20日・午前0:30に発生。 ※赤印
罹災棟数・・・・・・・2238棟
罹災人数・・・・・・・8790人
死傷者数・・・・・・・3人
焼失面積・・・・・・・22万㎡
この大火により、市街地の42%程が焼失した。
第二次大火は、昭和31年3月20日・午後10:50に発生。 ※青印
罹災規模は、第一次大火の約半分位とされている。
火事だ、火事だ、どご火事だ。清助町の豚小屋だ。 自分が子供の頃に聞いた唄です。豚小屋が本当かどうかは分かりませんが、冬場特有の北西よりの強い風にあおられ、風下にある木材工場や材木問屋に延焼し被害が大きくなった様です。 この第一次大火により、延焼を防ぐため道路を広くし緑地公園を作るなど都市計画が作成された。


年代は不明ですが、大火前の畠町商店街。


同じ位置からの、現在の畠町商店街。


柳町辺りから、駅前方向の畠町商店街。
大火により、道幅が30m道路に拡幅された。畠町は、国道101号線が通り国道7号線に抜ける能代のメインストリートであり、昔から商店が多く立ち並んであった。しかし道が悪く「畠町のドロケド」と呼ばれていた。 現在の地形から考えると、畠町は樽子山からゆるやかな下り坂になっている。そのため、樽子山から流れる水が畠町に溜まったのだと思う。 30m道路になってから歩道にアーケードが形成され「畠町新銀座」と呼ばれる商店街が出来た。しかし大型店が出来始め、駐車場を持たない畠町商店街は段々とすたれて行く事になる。さらに能代大橋が出来てからは交通の流れが変わり、車の量も少なくなりシャッター街となっている。 現在は老朽化したアーケードを取り壊し、道幅がより広く感じられる様になった。


中和通り商店街。
樽子山をはさんで、畠町とは反対の位置にある。 中和通り商店街が出来たのは、第一種大型店である「アイケー」が出来てからだと思う。1977年当時の能代で、一番人通りが多かったと記憶している。しかし郊外に店が出来始めてから人通りも減少した。2002年にサティが閉店してからは、商店街としての魅力が少なくなった様に感じた。中和通り商店街の単独企画として、「中和100円商店街!!」が定期的に行われている。


新聞によれば盛況である様だが、チラシを見る限りでは魅力が薄い様に感じる。


柳町商店街入り口の「たっぺの坂」です。
柳町は、1686年頃に形成されたとされています。 柳町にはむかし遊郭があり飲み屋街として有名で、商店街は畠町であった。しかし今は、能代で商店街として成立しているのは柳町だけではないだろうか。組合病院が移転し、そこへイオンが進出してからイオンを核店舗として商店街が形成されている。 能代大橋が出来て国道101号線が通り、車の量が多くなり人通りも多い。

1〜2年後には、東能代地区へイオンショッピングセンターが進出する。イオンでは柳町の能代店を撤退しないと明言しているが、状況次第では変わるかもしれない。そうなれば柳町商店街も、畠町商店街や中和通り商店街の様になってしまうかもしれない。市街地のドーナッツ化が進む中、イオンの対応次第ではドーナッツ化がより進む事になる。

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