秋木製鋼で不正の発覚

秋木製鋼で同社の製品である鋳造品の一部について、強度などを確認する試験や鋳物の強度を高めるための熱処理を、発注者の要求を満たさないままに出荷していた事が1月15日付の北羽新報上に載っていた。

記事によると、検査の不正は2011年4月以降から一部製品について試験を行ってないかった様です。そして、取引先に対する報告書には、要件を満たしていたとする架空の検査結果を記載していた。また、2008年夏頃からは鋳物の強度を高めるための熱処理を発注者から要求された時間や温度ではなく、それよりも時間が短く温度が低い同社の基準を適用していた様です。 試験は通常 担当する社員が一人で行っていた様ですが、製造過程で不正がある以上、検査でも不正をやらざるをえなかった部分もあったかもしれない。そういう意味では、担当者一人の不正ではなく会社ぐるみの不正であった様に感じます。 2021年9月に取引先の一社から指摘があり、社内調査を経てこの不正が発覚した様です。同社と関係する取引先は国内重電メーカー約10社で、出荷した鋳造品の半数以上が該当するとされている。同社の鋳造品は、全国の発電所などで使われているという。

不正に関する記事は1月15日付の新聞に載っていたが、秋木製鋼の異変はその数日前から感じられていた。

自分の家の前に秋木製鋼の工場がある。自分の記憶では、休み明けの1月11日or12日 平日にもかかわらず妙に静かで、今日は日曜日? と勘違いする程だった。こんな事件が起きているとは知らず、正月明けにまた正月休みだろうか? 随分と待遇の良い会社だなぁ〜。 と思っていた。その後に新聞をみた時に「そういう事だったのかぁ〜」と理解した。事件が明るみに出た後も何人かの人は出社している様でしたが、工場は稼動しておらず社員駐車場にも車が無い状態が続いていた。1月22日は、久しぶりの出社の様に感じられた。しかし工場はまだ稼動しておらず、静かな状態だった。その日は全員で除雪作業だったのだろうか、静かな町中にブルドーザーの排気音とバックのピーピーという音が響いていた。仕事を始める前の除雪だろうか? と思っていた。

休み明けの月曜日になっても、相変わらず工場は静かなままだった。社員は出社している様ですが、工場に灯りは見えなかった。色々と整理などをしているのだろうか? と思った。

金曜日の夜、工場の一画に灯りがともった。そして翌日には工場全体に灯りがともった。いよいよ週明けの31日から本格稼動か? と思ったが、まだ工場に動きを感じなかった。秋木製鋼は24時間稼動しているのでとてもうるさい存在だったが、止まったままだと不気味な静かさに変わる。 慣れだろうか?

秋木製鋼は1967年創業と書かれていた。

http://www.akimoku.co.jp/

自分が幼少の頃から、つまり60年近く前からすでにこの工場はあり、秋木製鋼という会社だと思っていた。たぶん、登記上の正式名称は違っていたのかもしれない。 秋木について調べようと思い図書館に行ったが、詳しく書かれている本は見付からなかった。秋木は、1907年に「井坂直幹」によって設立された「秋木工業」です。能代が発祥の地で、かつては東洋一の製材会社と言われました。秋木工業は製材会社から始まったのですが「秋木機械」「秋木製鋼」という機械部門があり、たぶん自社の製材に使う機械などを製造する事から始まったのだと思う。秋木機械は、現在の秋田病院(旧・社会保険病院)と能代松陽高校のグランド辺りにあった。自分が高校生の時にはまだそこに秋木機械がありその時に稼動していたかどうかは記憶にないが、現在は工業団地に移転して「アキモク鉄工」に変わった。1981年にその跡地へ、イトーヨーカ堂を核店舗とする「秋木能代ショッピングセンター」の出店構想が明らかになった。結果的にこの構想は消え、1990年にイオンを核店舗とする「能代ショッピングセンター」が柳町にオープンした。

能代市はかつて「木都」と呼ばれていた。その礎となったのが秋木かもしれない。秋木の旗艦工場がどこにあったかは分からないが、中川原に合板工場があった。かつてはこの工場と能代駅がトロッコでつながっており、最初は秋木があってそこに能代駅が出来たと思い込んでいた。しかしそれは、年代的に考えて間違いである事に気付いた。たぶん、能代駅に近くて工場用地を広く取れる場所として中川原に建設されたのかもしれない。 トロッコの軌道は自分が中学生の頃まで存在し、小学生の頃はこの軌道を通って「みつまる」に行っていた。正規のルートよりかなり近道になるが、この軌道を通って駅に侵入する事は違法行為である。桧山運河に掛かるトロッコの橋は、1972年の水害で流された。現在は軌道の土台が草に覆われてその痕跡を知る事は出来るが、対岸に行く事は出来なくなった。

戦時中、秋木は軍需工場として稼動していた。

秋木機械か秋木製鋼かは分からないが、軍のお偉いさんが視察に来てそれを撮影したものだろう。当時の技術で、兵器を作る力は十分に持っていたかもしれない。米代川河口付近には「松下造船所」があった。ここでも軍の船が建造されていたが・・・

戦争の痕跡
能代にも戦争の痕跡があり、能代西高の敷地内に能代飛行場の弾薬庫が残っている。しかし、能工・能西の統合により解体されるかもしれない。風の松原では、松根油採掘の痕跡が多数見られる。戦争末期には、物資不足から木造船の工場が作られた。そこで建造された船は・・

戦争末期、日本では金属が不足していて木造の軍船が建造される計画があった。この時代に木造船など通用するはずもないと思うのだが・・・  結局、戦地には一度も出航する事がないまま幻の船となった。同じ時期、石油不足のため松の根から燃料を絞り取っていた様です。これも一度も使われないまま終戦を向かえたと聞く。

詳しくは知りませんが、戦争当時の建物がまだ残っている様です。そして、今も使われている感じです。

敗戦を向かえ、軍需工場だった秋木にも賠償金の義務が生じた。その支払いと軍需工場から一般工場への切替えが上手く出来なかったのか、秋木で大量リストラの発生した事が当時の新聞に載っていた。昔の新聞であったため記事を読んで理解する事は出来なかったが、見出しに「大量の首切」の文字が見えたのでリストラの事だろう。当時、GHQの管理に置かれた日本では財閥の解体が進んだ。それが秋木にも及び、秋木機械と秋木製鋼は分離され別会社になった様です。かつて東洋一の製材会社といわれた秋木工業は、ここから斜陽の気配が・・・  一方 同じ時期に能代にあった松下造船所は軍需産業から脱却し、松下電器(現・パナソニック)として世界的な企業になっている。その辺は、経営者の能力かもしれない。 35年後、秋木工業は終焉を向かえる。第一次オイルショック後の住宅不況や技術開発の遅れなどから、1982年11月24日に倒産した。経営も借金体質であったという事から、戦後の復興に上手く乗れなかったのかもしれない。 現在 秋田市にある「新秋木工業」は、「セイホク」がスポンサーとなって更生手続きが開始され、セウホク傘下の工場になった会社です。新秋木工業のTVCMが午後6時半頃から流れるが、その際に明治40年創業と言っている。現在はセイホク秋田工場の様なモノだから、その言い方は少し違う様な・・・ と思うのは自分だけだろうか?

中川原に住んでいれば、それなりに秋木とは関わりを持つ様に思う。自分が知っているだけでも数人の方が秋木に勤めていたので、その数はもっと多かったかもしれない。そして、秋木は自分にとってもそれなりに・・・

上記の航空写真は能代駅・御指南町・中川原の一部ですが、それらの土地の多くは秋木の所有地だったのでは? 緑町には秋木機械の広大な土地があったし、それ以外にもあったかもしれない。「世界自然遺産・白神山地」で有名になった青秋林道。この林道の入口事務所に秋木の文字が・・ この不確かな記憶から、白神山地の秋田県側は秋木の山林?

青秋林道問題と世界遺産
白神山地は、1993年に世界自然遺産に登録された。登録以前に、世界遺産の核心地を縦断する計画だったのが青秋林道です。青森県側は開発の中止を決定したが、秋田県側は中止の意志はなかった。そのため、県境まで開発が進む事になる。登録された後は・・・

上記の航空写真に赤い線引きをしましたが、この範囲が秋木の所有地でだったのでは? と思って書きました。自分の昔の記憶と曖昧な部分は適当に線引きをしたので、間違いは多くあると思います。しかし、この間違いによって誰にも被害はないはずだし自分にもそんな影響力はないので、こんな感じだと思って見ていただけると幸いです。

図の①は「山本地域振興局庁舎で、自分達は地方事務所と呼んでいる県の施設です。自分の子供の頃の記憶では、この場所にコンクリート土台の廃墟が合った様に覚えている。この事を親に聞くと、火事で焼けた跡だと聞いた記憶がある。その事を聞いたのはおよそ50年以上前の事で、能代で火事というのは大火の事か? と連想した。

1949年の第一次大火と、1956年の第二次大火によって延焼した能代の地図です。1949年2月20日に第一次能代大火が発生した。被害範囲は東西約1500m・南北約800mに及び、消失面積は83.6haで、当時の市街地のおよそ42%が消失したとされている。赤く囲んでいる部分が現在の地方事務所の辺りです。当時の記録によれば、消失した施設の中に「秋木下駄工場」があった。その記録では、秋木下駄工場の鎮火が一番遅れたと書かれていた。当時の火災発生源や風向きなどから考えると、その地方事務所の辺りが最後の被災地であると推測出来る。つまり、ここに火事の遺構があり秋木下駄工場の鎮火が一番遅れた事実から、この場所に秋木下駄工場があったと推測した。しかし、20年間この場所は放置されていたのだろうか? という疑問があるが、調べても書かれている物がなかったので、ここは工場跡地であった! とする。 地方事務所のの向かいに「能代スポーツセンター」と「旧・平安閣」がある。能代スポーツセンターはボーリング場ですが、昔は秋木スポーツセンターと言われていた様な? 記憶。そして、平安閣が建つ前はここに秋木の独身寮が建っていた。そういった事から、この辺一帯は秋木の所有地であったのでは? と推測した。

②には、コンクリートで出来た何に使ったか分からない遺構があった。

子供の頃にここで何度か遊んだ事があるが、あまり思い出したくない場所です。桧山運河の整備によって、現在は土に埋もれてその姿を見る事は出来なくなった。 ③は井坂直幹の家があった場所で、現在は「井坂公園」になっている。その敷地内に「井坂記念館」がある。④は「御指南神社」で、井坂直幹を祀っている神社です。これらは桧山運河沿いにあり、この辺一帯が秋木の所有地であったのでは? という考えに至った。そのため、②の遺構も秋木の施設であったのでは? と思った。

⑤には、旧・雇用促進住宅が2棟建っている。

この場所には、かつて秋木のグランドがあった。バックネットだけが付いた粗末なグランドであったが、平日であれば自由に使う事が出来たので、小学生の頃はここで野球をしていた。 ⑥の辺り一帯は、鋳造の際に出たと思われる灰の捨て場になっていた。砂が固まった柔らかい石の様で、それを削って色々な物を作って遊んだ。灰捨て場=ゴミ捨て場の様になっていたので、その中を探すと興味のあるゴミを見付ける事もあった。そのゴミ捨て場が、自分達の遊び場でもあった。⑨の場所にも灰が捨てられていたが、ここは河川敷で秋木の所有地では無いと思う。昔は不法投棄もそれほど厳しくなかったのだろう。桧山運河には生活排水や工業排水が垂れ流し状態で、生ごみも捨て放題であった。流れがなく淀んでいるその運河は、悪臭を放ちドブ川状態になっていた。 秋木製鋼では、無料で入浴をさせてもらう事が出来た。社員が入浴後という条件付きであったため、その風呂はすごく汚かったと記憶している。しかし当時は家に風呂が付いている家がほとんど無かったため、すごく便利であった。そして、風呂場で友達と遊べるのも楽しみであった。秋木の存在は、自分達にとってその利益は大きかった。

⑦が「秋木合板」の跡地で、建物はすでに取り壊されている。ここから駅に向かってトロッコの軌道があり、⑧の場所にトロッコの橋が掛かっていた。 これらの事から、全盛期時の中川原・御指南町における所有地はこの位あったのでないだろうか。その中で、戦後の賠償金の支払いのために売却した土地もあったかもしれない。 ただ、これらは自分の想像で不確かなものです。

秋木製鋼における、不正の原因は何だったのだろうか? 一番の原因は、検査担当者が一人であった事。記事によると「出荷期限が迫った際などに試験を省いた」と書かれている。仕事量的に、一人では無理な状況だったのか?検査には資格が必要か?検査にはどの位の時間が掛かるのか? いずれの事も分からないが、仕事が間に合わなかったら人員をやり繰りして間に合わせる必要があるのでは。と自分は思う。工場からの出荷が遅れると、取引先の工程が全部狂う事になる。当然 信用は失うし、ペナルティが課せられるかもしれない。 検査が不正だから、報告書も虚偽の物になってしまう。その報告書は別の社員がチェックしていた様ですが、帳尻が合えばそれで良かったのではないだろうか。 社長は会社ぐるみの不正ではないと言っているが、果たして担当者個人だけで出来る事だろうか? 古い慣習があった様に感じる。 会社は成長しても、従来通りの古いやり方で仕事を続けて来たのかもしれない。かつて親会社であった秋木工業も、過去の栄華から新しい道を開拓出来ないまま倒産に至った。それが秋木製鋼にも当てはまるのでは? と感じました。

2月に入って本格稼動の様にも感じられたが、以前の様な稼動状況には戻っていない様にも感じられる。今回の不正はどの程度のモノだったのだろうか? 1月15日に、北羽新報の記事に載って以来何も書かれていない。何か変わった事が起こると新聞のコラム欄に書いたりする事があるが、そこでも何も触れられなかった。自分の偏見かもしれないが、地元紙は地元に不利な事は荒立てない様にする感じを受ける。 問題となる物が一般消費財であれば、メーカーからの通知やリコールなどでその詳細を知る事が出来るが、今回の場合は発電用タービン部材であるため業界でのみ使われる物。そのため一般消費者にはその詳細を知る事は出来ないし、知る必要もない事です。

秋木製鋼では「調査で分かった事実を報告し謝罪するとともに、取引先側の今後の求めに誠意を持って対応していく」と、記事に書かれていた。 問題となった部材が使われている物は、そのほとんどが稼動しているモノと思われる。そんな中で、その部材を再検査するのだろうか? もし検査をするとしたら、発電所を止めて検査をするのだろうか? それが原発に使われる部材であったとすれば、その検査はもっとやっかいな事になると思う。それらがどういう扱いになるのか分からないので何とも言えないが、タダで済むはずは無い様に思います。 もし発電所を止めるとなるとその影響は大きいし、休業補償も発生すると思う。部材の交換となると、解体費用や何やらで多額の費用が掛かる様に思う。それらの費用が秋木製鋼に請求されたら、果たして会社として存続出来るだろうか? かなりの不安がある様に自分は感じる。斜陽・能代にとって、秋木の灯がまた一つ消えるのは大きな損失であると自分は感じる。ま、最悪でも完全消滅という事は無いと思いますが・・  (あくまでも、状況が分からない自分の妄想です。)

8時になればいつものラジオ体操が聞こえ、いつもの日常が始まった感じを受ける。ただ、2週間程経っても以前の様な稼動状況にはない様に感じる。大型車の出入りは少ないし、夜は工場の灯りが消えて稼動している様には感じない。 子供の頃、秋木の所で遊んだ場所はその痕跡が一切残っていない。けっして消してしまいたくない自分の記憶です。

 

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