昭和47年・中川原水害

西日本各地では、連日の大雨により記録的な災害に見舞われている。
7月9日の朝の報道では85名の方が亡くなり、確認されているだけでも77名の安否不明者がいる。現在は雨が止んでいる様だが、まだ油断が出来ない状況にあると思う。

1972年にも 昭和47年7月豪雨 と命名された災害が発生している。それは、7月3日〜7月15日まで雨が降り続いた事によるモノの様です。梅雨前線が停滞し、それに台風の影響で大雨になっているのは今回の災害に似ている。特に九州・四国・中国地方で大雨が降り、災害が発生した。

      全国では、
死者・・421名、行方不明者・・26名、負傷者・・1056名
家屋全壊・・2977棟、半壊・・10204棟
床上浸水・・55537棟、床下浸水・・276291棟  などの記録が残る。

1972年7月9日に、能代市でも中川原地区で大規模な水害が発生した。
数日間雨が降り続いていたため、米代川の水位が上昇し堤防の一部が決壊した。

 7月8日に避難勧告があり、自分達は親戚の家へ避難した。その時に両親は、状況を見るためまだ家に残っていた。 翌9日は晴天で、危機は脱したと思っていた。しかし昼頃に堤防が決壊をし、濁流が部落を飲み込んだ。その時に両親は、堤防が危ない事を知り事前に避難していた。
中川原地区は海抜0m以下のため昔から水害が多く、少しの雨でも浸水を繰り返していた。その後堤防が整備され、浸水もなくなっていた。両親も、これほど大きな水害になるとは思わなかったかもしれない。

堤防決壊の知らせを受け、能代駅の辺りに見に行った。
まだ濁流がひどい状態で、当時は木材会社が多かったため積んであった丸太が流れ出し、それが家に当たって被害を大きくした。 幸い自分の家はそれらの直撃を免れた事と、数十cm高台にあったため家のダメージはそれ程なくガラス戸一枚が割れただけで済んだ。しかし、内部は泥でドロドロの状態ではあった。

当時は、ダムの放流が影響したのでは無いか? という話もあった。 その放流は事務的に行ったのか、ダムを守るため危機的に放流したのか今になっては分からない。 ただ、満水のために放流するにしても、その判断は難しいと思う。今回の水害でも、ダムの放流が影響した場所もあった様です。
現在の中川原地区には、当時の水害の痕跡は残っていないと思う。

それでも、神社やその他の場所には当時の到達水位を記録している場所がある。
15年程前までは自分の家の中に到達水位の痕跡が残っていたが、家をリフォームした際にその痕跡は全て消えた。しかし、記憶は今も鮮明に残っている。

堤防が決壊した場所には記念碑が建っている。丁度その場所は米代川がカーブし、水の圧が一番強かった場所を思われる。現在、その決壊した場所の堤防は前より2倍以上の厚さになり、他の箇所も2倍位の厚さになり高さも増した。その厚くなった堤防の部分には桜が植えられ、ちょっとした名所になっている。

昔の堤防には桧山運河の水門があったが、決壊後はポンプ場が作られ桧山運河へ強制的に水を流している。そこは清流公園という構想もあったが、どうなっているのだろうか?
今は汚い公園で、来る人もいない。

水害の後に雇用促進住宅が建てられたが、到達水位以上に土が盛られ、そこへ建てられた。中川原地区では一番高い建物だから、緊急の時にはそこへ逃げ込むのも一つの手段だと思っている。
十年程前にも米代川の水位が上がり避難した事がある。その時は避難勧告ではなく避難命令の様なもので、強制的に避難させられた。 上流域で大規模な水害が発生しており、下流域の能代市でも危険と感じたのかもしれない。 その時は警察が出て、中川原地区は完全に封鎖された。 結果は何も起こらなかったが、過去に経験しているため対応が早かったのかもしれない。昔より丈夫になり高さも増した堤防であるが、けして安全ではないという事が感じられた。 そのため、少し雨が続いたり大雨になると米代川を確認しないではいられなくなった。

国交省では、河川の水位が数カ所のセンサーやライブカメラによりリアルタイムで見る事が出来る。そしてその数値を見ながら、一喜一憂しているのが現状だ。 ただ、危機意識を持って、事前に対応する事も必要と思う。

昔より堤防が丈夫になった影響か、支流周辺に被害が出る様になった。本流に流れ込めず、川があふれて周辺に水が流れ出すためです。 大きな被害にはならないが、床下や田畑が水没する被害が発生している。
堤防が丈夫になった分貯水量が増え、仮に堤防が決壊した場合には、昭和47年の水害より被害が大きくなり水没する地域も広がると思う。

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