能代市河戸川地区に、ちょっと変わっと風景を見る事が出来る。
その風景を初めて見たのは、小学校高学年の頃だったと思う。何の変哲もない田園風景ですが、田んぼの中にポツポツと枯れたすすきで覆われた小山が見える。 当時の授業であったと思うが 柏子所貝塚 の事を学んでいた。自分達も化石を見付ける事が出来るのではないかと思い、友人と柏子所へ化石を探しに行った。柏子所の場所は知っていたのでその場所へ行って見ると、地層が露出している場所を見付けた。「ここだ!」と思い込み発掘をしたが、一つの化石も見付ける事が出来なかった。 その貝塚は少し離れた場所で、仮にその場所を知っていたとしても素人の自分達がその場所に入る事は出来なかっただろう。その時に自転車で見た風景が、田んぼの中に島が浮いている様に見えた風景です。 今回 写真を撮りに行って思ったのは、当時はもっとたくさんの島が浮いていた様に記憶している。
県南にある、象潟の九十九島の風景です。田園地帯に60程の島が浮いている様に見える。この場所はかつて海で、1804年の大地震で海底が2m以上隆起し、一晩で現在の様な陸地になった。松尾芭蕉が、1689年6月15〜18日に象潟へ滞在していた。その時に詠んだ句が、
「象潟や雨に西施がねぶの花」
象潟で雨に濡れたねぶの花を見ていると、西施の美しさはこの様なものではなかっただろか。 と、感じたのだろう。 松尾芭蕉は、象潟の前に宮城県の松島に寄っている。
松尾芭蕉は松島の風景に感動し、美しさのあまり句が詠めなかったと言われている。1804年以前の象潟も、松島の様な風景であったと想像する事が出来る。
現在の九十九島に、河戸川の風景がオーバーラップした。田んぼの中に浮かぶ小島が、かつては松島の様な風景であったのではないかと! そういう思いに至った事には根拠がある。
能代市の遺跡発掘の分布図です。米代川沿いに遺跡が分布しているのが分かると思います。その中で、赤丸印の所が柏子所遺跡で貝塚が発見された場所です。赤四角部分が撮影をした辺りで、田んぼの中に点在する小島の部分です。
柏子所遺跡・貝塚とは、現在の柏子所集落の背後斜面の途中にある平坦地で、標高は約30mです。1955・57・58年にわたって発掘調査が行われた結果、縄文後期から晩期にかけての集落であった事が分かった。貝塚からは、土器・石器・骨角器・装飾品・土偶等が発掘された。遺跡の端の方では7基の墓が発見され、8体の人骨が発掘された。
その8体の内7体の人骨は、頭を西向きにして埋葬されていたそうです。 その当時の風習だったのかもしれません。
縄文後期には、海水面が現在より5m程高かったそうです。そのため分布図に示した青く囲った部分、能代平野は海であった可能性が高い。 そして、柏子所の隣に「塩干田」という集落がある。土地にまだ海水の塩が残っていたのだろうか? 古代 柏子所から見える風景が松島の様に海に浮かぶ小島と想像され、海水面が下がってからは、象潟の九十九島の様な風景に変わったと想像した。
先日の北羽新報にこの小島の事が記事に載っていた。そして、この小島の正体を知る事になる。
この小島は、60年程前に田んぼの整備により出現したらしい。915年に、日本最大規模とされる十和田火山噴火が起こった。この時に発生した火山泥流が、米代川を下り能代平野にも堆積した様です。農地を開拓するにあたり邪魔な軽石や土地を低くするために削った土等の排土を集め、それらを積み上げて小山になった物が現在に至っている。
改めて考えてみると、古代から存在したのであれば木が生えていてもおかしくないが、この小山には草しか生えていない。 大館の遺跡からは、十和田火山泥流により埋没した建物がタイムカプセルの様な状態で発見された。この小山には、何の学術的価値もない様です。この小山が、かつては50ヶ所程あったそうです。 そう言われてみると、子供の頃に見た風景はもっと壮大であった様に記憶している。
河戸川地区の水田地帯は大規模な圃場整備事業が進行中で、今後数年の内に小山は全て撤去される見通しだそうです。
それらを知り、これまでいだき続けてきた古代のロマンが一晩で消滅した。古代の遺物と思い込んでいたものは、近代のゴミの山だった。
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