終戦の日が近くなると戦争に関した番組が多くなり、戦争に関した行事も多くなる。戦争が終わって73年になるが、大昔の話ではなく人類の歴史から見ればついこの間の事になる。戦争の痕跡が少なくなる中で、戦争の悲惨さは永遠に引き継がれていかなければならない。
敗戦の色が濃くなった頃には日本の制空権が失われ、7月〜8月は毎日の様に空襲が行なわれていた。そして、沖縄や支配地であった満州・樺太に移住した人達は、本土以上の苦しみを味わう事になった。 現在もミサイルや核の脅威があり、戦争の可能性もあるが現実的ではない。しかし太平洋戦争の時は、恐怖が現実的であり死が目の前に見えるモノであった。平和ボケした現在では、その恐怖を想像する事が出来ない。
男性が兵士になる事によって、労働力が大きく減る事になる。そのため、支配下にあった中国・朝鮮人が労働力として徴用された。それは戦況の悪化により多くの日本人が徴兵され、それに伴い多くの中国・朝鮮人が徴用される事になった。支配下にあった中国・朝鮮人は奴隷として考えられ、労働環境の厳しい現場に配置されていった。そして、食事も満足に与えてはもらえなかった。 太平洋戦争の前後の時期には、昭和の大凶作や凶作により食糧事情が困窮していた事から日本人でも満足に食べる事が出来ない状況であった。そのため、中国・朝鮮人にまともな食事など出るはずもなかった。そんな不満が溜まり、戦争末期の頃には強制連行された人達による暴動や逃亡の事件が各地で起きていた。
大館市では「花岡事件」という大きな暴動が起きた。花岡鉱山で中国人労働者が蜂起し、日本人も殺害された。暴動後に捕らえられ、拷問等により中国人労働者・419人が死亡した。しかしそれ以前から、労働環境の悪さから多数の方が亡くなっている。その様な事から、暴動の契機になった。
八森町の「発盛製錬所」にも、多数の朝鮮人が労働者として送られてきた。暴動こそ起きなかったものの、逃亡事件は起きていた。 「八森」と「発盛」、なまるとイントネーションは違うが発音は一緒になる。
八森(はじもり)、発盛(はじもり)。
何とも安直な会社名だと思っていた。 しかし、正式な呼び名は「ハッセイセイレンジョ」 であった。 発盛製錬所とは、1887年に能代市の呉服商人が、八森町の椿海岸で偶然に銀鉱石を発見した事に始まるとされている。その後は鉱石の枯渇等により、事業内容も銀から銅・ニッケル・鉛主体へと変わってきた。そして、自山鉱から買鉱へと移行していった。
(明治時代 全盛期の六角煙突)
1990年3月24日に溶鉱炉の火止め式が行なわれた。創業以来84年間の歴史を引き継ぐ心臓部が止まり、発盛の火は事実上消えた。かつては、東洋一の銀山として栄えた。
今も発盛製錬所の痕跡がある。
鉱滓を利用して作られた「カラミレンガ」
1910年の日韓併合により朝鮮人が大量に出稼ぎに来る様になり、婦女子も紡績工として渡って来た。その当時から、発盛製錬所(鉱山)には多数の出稼ぎ労働者がいたのかもしれない。 その後軍需産業の労働者不足解消のため強制連行が行なわれ、発盛製錬所にも多数の朝鮮人が送られて来た。そして、姓名を日本名に改名させられたという。工場近くの海岸には朝鮮長屋が作られ、そこへ収容されていた。
毎晩 男鹿の方に向い 「アリラン・アリラン」 と歌い、 「アイゴ・アイゴ」 と、涙を流しながら絶叫していたとされている。
2006年末に工場から山側に入った所で朝鮮人の墓地が発見され、約70基の墓石が確認された。昔からその場所が朝鮮人の墓地だという事を地元の人達は知っていたと思うが、日本人は朝鮮人を見下す傾向にあるため管理もされず藪の状態にされていたと思う。墓地が発見された時に、能代市の故 野添憲治さん(今年の4月に亡くなった)等によってその場所が確定され、それ以降は毎年慰霊式が行なわれている。
様々な石がゴロゴロと転がっている状態で、たぶんこれが墓石だろう。いっその事、掘り起こして遺骨を回収したら良いと思うのだが、すでに遺骨は土に還っているかもしれない。近くにレンガで作られた火葬場があった様だが、周りは藪になっていて確認をする事は出来なかった。強制連行され、異国の地で命を落とさなければならなかった無念さは大変なモノだったと思う。 強制的に行なわれた事に、慰安婦の問題がある。確かに強制的にやらされた方もいただろう。しかし、多くは生活のために自発的に行っていたのではないかと自分は思っている。
強制連行された方々は、終戦後に祖国へ戻されたと思う。在日と呼ばれる方々は、出稼ぎや逃亡等で戦後の混乱期にそのまま居着いたのだろうか? 自分の家の近所に朝鮮人一家が住んでいた。だが、どういった成り行きで住み着いたかは分からない。 自分の親もやはり、朝鮮人を見下していた。その一家には子供が何人かいた事を記憶しているが、自分より2〜3才上の女の子だけは覚えている。小学生の頃に2〜3度女の子の家に遊びに行った事があるが、いつの間にか引っ越しをしていなくなっていた。高校生の頃に風邪を引いて病院に行くと、その女の子が看護婦として働いていた。向こうは覚えていたか知らないが、一言も話をする事もなかった。
その病院は廃業をしており、彼女の消息も知れない。
今では、どんな顔であったかも忘れた。
コメント
はじめまして。私は八峰町が好きでよく旅行に出かけるのですが、ここの前を通るたびにピリッとした空気感を感じてとても気になっていた場所でした。記事を読んで少し事情を知ることができました。有難うございました。
どうも、はじめまして。 自分のブログに興味を持って頂いてありがとうごさいます。
朝鮮人墓地では、過去の無念からその場の空気に表れたのかもしれません。 平成18年に朝鮮人墓地が発見されて以来、慰霊式が毎年行われて来ました。しかし、新型コロナ感染拡大の影響により慰霊式は中断されていました。そして今月の8日、4年ぶりに慰霊式が行われた! と、北羽新報に載っていました。
朝鮮人墓地は、地元のボランティアによって草刈りなどの整備が行われ、一部の団体によって慰霊式が行われて来ました。しかし、行政などはこの事に関与していない様なので、整備はこれ以上進まないかと思います。 それでも、供養をする事によって、朝鮮人被害者の無念も少しはやわらぐのでは? と、思っています。